いが、入院して、静養するような金は一文もない。これは、近しい友人でさえ、私が説明せぬと、わからないのだから、他人が、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]にするのは当前である。
何んしろ、桓武天皇時代からの貧乏で、死ぬまで恐らくは、火の車だったり、水の車だったりであろうが、何の位貧乏し、何う大きくなって来たか、私の幼年時代から、話をして、死土産にしておこうと思う。
二
貧乏は、桓武天皇以来であるが、祖先は、植村与一兵衛宗春|尉《じょう》、という人からしか判っていない。私の本名は、植村宗一で、植を二分して、直木と匿名にし、当時三十一であったから、直木三十一、翌年三十二と、一目上りに変えてきて、三十五で止めたのであるが――この与一兵衛は、大和国箸尾村の土豪であった。与一という名から考えて、十一番目の子らしいが、その時分、それ程正確に、名をつけていたか、何うか分らないから、断言はできない。那須の与一、真田の与一、十から一つ出るので、十一男には、与一とよくつけるのが習慣である。
高取城々主も植村というが、それなんぞと、関係があるかもしれぬ。天正年間、筒井順慶が、織
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