富家が相当にある。この父の所へ、母が
「大野の植村の息子」
というので、嫁に来たのであった。来てみると、店先には「ぱっち」(股引の事)二三足と、汚い古着が、四五枚釣ってあっただけだったので、びっくりした。と、よく話していたが、これが、そもそも貧乏の始めである。
母の家は、大和の国の安堵村の下長で、藍と、木綿とを商にしていたらしい。幼少の時、父が死んで、その弟が、時代の衰勢と、自分の怠惰とから、すっかり、身代をつぶしてしまったらしく、後に、筆墨行商人になって、私の家へ、よく来たが、くると、母に叱られて、よわっていた。
池のある大きい、広い山があったし、馬がいつも、五六頭店先にいたと、母が話しているから、相当の商家であったのであろう。
三
この母に、一人の弟があった。養子に行って、新井姓を名乗り、孝次という名であったが、これが秀才で、大阪谷町の薄《すすき》病院の院長、大阪府会議長の薄恕一氏と、親友であり、早世して、非常に惜しまれたが、その為、この薄氏と親しくなり、殆《ほとん》ど育つか、育たぬか分らなかった私が、とにかく、四十三まで、生きて来られたのは、この人が居られたか
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