と、云っていたのを考えると、この辺は間違っていない。私が、十三四、親が、五十三四であるから、この収入が、父の最大収入であったのであろう。
十三
高等小学の記憶は、尋常よりも少い。その代り、少しずつ、乱暴者になりかけていて、こういう記憶がある。
それは、この当時まで、大阪には、堂島高等女学校より外に、女学校が無かったが、京都に、清水谷高等女学校ができた。この女学生が、学校の前を通るが、雨天運動場へ出ると、すぐ前が、空堀通なので
「あいつ、別嬪《べっぴん》やな」
とか
「左向け左っ、こらっ、鼻ぺちゃ、向かんか」
とか、私の外、二三人がやり出して、とうとう、雨の日には、女学生達、向う側を傘でかくれて通るようになった。所が、一日、金曜日の訓話の日、校長が
「本校の生徒の中に、品性を重んじない者がおって」
と、やり出して、とうとう、窓側へ、近づけないように、雨の日には、生徒の中から監視が立つ事になった。中学へ行ってから、夕陽丘女学校ができたが、私と河合二人が、夕陽丘の、藤原家隆の墓の前へ立って、女学校の方へ向いて、四人とも、小便をし、これが、市岡中学の生徒と、何うして判っ
前へ
次へ
全90ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング