復活して、これは、その後――今日も猶、つづいている。座談会などへ出ても、自分から中々口を開かないのは、その時からの習慣が、中学を通じて、天性のようになってしまったからである。
この打撃は、可成りひどかったらしく、学校が嫌になって、四年の時には、四番目か、五番目へ落ちた。
だが、父は貧乏の中から、学校だけは、大学までやると、必死になってくれたので、何の不愉快さも残っていないし、不自由さも感じなかった。
然し、家庭での生活は、今、考えると、みじめ極まるものであった。
六
私は、玩具をもった記憶がない、と云ったが、殆ど、間食をした記憶もなかった。いくつ位の時であろうか、家が近いので、学校から、一時間の昼飯時には、帰ってきて食べる事にしていた。遊びたい時分なので、急いで、御飯を食べ終ると、母に
「焦げあるか」
と、飯の焦げた所の残っているのを、催促する。
「ある」
「とっといてや」
と、云って、走って、学校へ行ってしまうが、この焦げた飯を握ったのが、私の間食であった。それから、母は、釜や、櫃《ひつ》の洗った残りの飯粒を、笊《ざる》へ入れて、天日に干しておいてくれて、これ
前へ
次へ
全90ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング