なると、勝負といってもほんの一|分《ぶ》か二分早く剣が届くか届かぬかで決まるものである。囲碁にたとえると一目か二目の細局である。伊藤一刀斎とか柳生宗矩《やぎゅうむねのり》なども、
「勝負は五分か一寸の内にあり」
 と云っている。宗矩がある浪人と試合した時、どう見てもそれは相打としか見えなかった。浪人を抱えている大名も相打だというし、浪人も相打だという。宗矩笑って、
「真剣勝負に相打だなぞという事はない。本当の太刀打なら拙者の勝である」
 と云ったので、浪人大いに怒り、真剣勝負をしようという。宗矩拒んだが聞入れないから真剣で立迎うと、浪人は血煙立って倒されてしまった。宗矩悠々と、その大名の前へきて、
「御覧なされ、勝負と申すものはかくの如きもの。木刀なればこそ相打と見えますが、真剣ならば判りましょう」
 と脇腹の所を見せると、袷《あわせ》二枚を斬って肌繻袢が切れていなかったので、一座感じ入ったという話がある。
 小次郎と武蔵とのこの試合の時にも、武蔵の鉢巻が切れて落ちた位である。ほんの一瞬の差、というよりも得物の長短である。武蔵は小次郎が「物干竿」と名づけたる三尺二寸五分の愛刀で対してく
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