宮本と云う所が、播作の国境に近いから間違いが起ったかと思えるし、父の代の前半までに播州におったとしたら、馴染の薄い美作より播州の方が口に出よいかも知れぬし、系図を尊ぶ時代故、武蔵も、
「播州赤松の後」
 位の事は云っていたかも知れない。しかし屋敷跡もあり、父母の墓もあるし、旧主の城跡もあるとすれば、播州の人と云う、正確な証拠の出ぬ以上、美作の人とすべきである。

 慶長十七年四月、小倉へ来た武蔵は、細川家の重臣、長岡佐渡ノ主|興長《おきなが》を訪うた。興長は父無二斎の門弟である。そして、
「佐々木小次郎と一手合せたいから、上へ願ってくれないか」
 と申入れた。細川三斎は頗《すこぶ》る武芸を好んだ人であった。岩流を独創した小次郎と二天一流を発明した武蔵とは、武道に携《たずさわ》る者として知らない者の無い名である。興長の話を聞いてすぐ許した。そして、
「日は四月十三日、辰の上刻(午前八時)、場所は船島に於いて」
 と云う事になった。船島は下の関と小倉から一里の海上にある小倉領の小島である。船島とも向島とも云うが今「岩流島」と呼ばれている。「二天記」によると、
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「扨《さ》テ前日、府中ニ触レアッテ此度《このたび》双方勝負ノ贔屓《ひいき》ヲ禁止セリ。興長主《おきながのかみ》武蔵ニ謂《いっ》テ曰《いわ》ク、明朝辰ノ上刻向島ニ於テ、岩流小次郎ト仕合致スベキ由ヲ諭《さと》ス。小次郎ハ忠興公(三斎)ノ船ニテ差越サルベシ。武蔵ハ興長ノ船ニテ可被渡也《わたらせらるべきなり》。
武蔵、喜色|面《おもて》ニ顕《あらわ》シ、願望達セシコトヲ謝ス」
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 とある。ところがその前夜の事、武蔵は出たまま行方が判らなくなってしまった。
 噂というやつはこういう時に得たり賢しと立つ。
「岩流の腕に恐れて逃げたのだろう」
「まさか許されまいと思っていたのが許されたから怖気《おじけ》づいたのだろう。岩流に立合を申込んだと云って自分に箔をつけるつもりの目算が外れたからよ」
 というような種類のものであろう。それだけに細川家中の人々は小次郎に贔屓している訳である。そして佐々木小次郎の腕前を信じているし、信じさせるだけの達者であったのである。長岡佐渡はこの噂を聞いて、武蔵を疑った。もしかしたら、と云う懸念もない事は無いからである。然し、そういう噂を立てる連中よりは、武
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