巌流島
直木三十五
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)飯篠長威斎家直《いいざきちょういさいいえなお》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)富田|勢源《せいげん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)兵法三十五※[#「山+竒」、第3水準1−47−82]条
[#…]:返り点
(例)不[#レ]容《いれず》
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一
「天真正伝神道流」の流祖、飯篠長威斎家直《いいざきちょういさいいえなお》が当時東国第一の兵法者とされているのに対して、富田|勢源《せいげん》が西に対立して双《なら》び称されて居たものである。中条流より出た父九郎右衛門の跡を継ぎ名を五郎左衛門、入道してのちに勢源、自ら富田流の一派を樹《た》てて無双の名人とされて居た。越前の国宇阪の荘、一乗浄教村の住人である。
飯篠家直の門下からは、弘流《ひろしりゅう》の井鳥為信、一羽流《いちうりゅう》の諸岡一羽、本心刀流の妻方謙寿斎《つまがたけんじゅさい》、神道一心流の櫛淵宣根《くしぶちのりね》、有馬流の有馬頼信、新陰流の上泉伊勢守の如き剣豪が出て居るし、富田流から一放流の富田一放、長谷川流の長谷川宗喜、無海流の無一坊海園、鐘捲流の鐘捲自斎などの俊才が出たが中でも鐘捲自斎が傑《すぐ》れていたらしく、門人に伊藤一刀斎景久が出て徳川中世の武道を風靡《ふうび》した一刀流の源を造っている。この間にあって佐々木小次郎も富田門に学んで、自ら師より許されて岩流の一派を開いたその俊才の一人であったが、「岩流」を開く事を許されたのが十六歳というからその天才的な練達、武蔵に討たれなかったら鐘捲自斎以上であったにちがいない。
勢源という人は小太刀の名人であった。眼を病んで入道になってからいよいよ小太刀を研究して好んで一尺三寸の得物を使った。永禄三年五月、美濃の国の国主、斎藤|義竜《よしたつ》の乞によって飯篠門下の梅津某を一撃の下に倒した時などは、薪《まき》の一尺二三寸のものに手許へ革をまいただけの得物であった。佐々木小次郎は同国越前の産、幼少の頃から勢源に就いて学んだが、好んで大太刀を使ったと伝えられて居る。
十五六の頃、小次郎が三尺の木剣、ほぼ勢源の対手《あいて》をす
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