るに足る位に使えるようになった。勢源が強いと云った所で、小次郎がやや相対しうる位に使えると云った所で、どの位の程度か判らないが、外の者と比較するには梅津某でも取ってくるといい。この人は飯篠家直の歿後、同門中に有って手に立つ者が無く相弟子の多くがその門下の礼をとったと云うのだから相当に上手であつたとは窺える訳である。美濃の国にも手の立つものがない。義竜それを無念として、折よく遊歴して来ていた勢源に三度礼を厚くして立合ってもらったのである。この二人の勝負はてんで問題にならなかった。小次郎と武蔵の立合なんかより遥かに余裕あって勢源は勝った。従って十五六にして「粗々《ほぼ》技能有《ぎのうあり》」と伝えられている位、師に対抗出来た小次郎は立派な達人であったらしい。武蔵が「天晴れな若者」と惜しんだのも尤《もっと》もである。
 後に五郎左衛門勢源の跡を継いだその弟富田治部右衛門を美事に打込むと共に、勢源は「岩流」を樹つる事を許した。「岩流」又は「巌流」とかく。信頼すべき書「二天記」によると「その法最も奇なり」と有るから、独創の攻防法を編出していたものと見える。一流を樹てると共に彼は諸国巡歴の旅に上った。当時、足利義輝の師範役塚原|卜伝《ぼくでん》は引退して非ず、京師には吉岡|憲法《けんぽう》の子、又三郎が随一の者とされていた。
 豊前の国小倉へ来るとともに、太守細川三斎|忠興《ただおき》が彼を抱えて師範役とした、留まること半歳、早くも中国、九州に名を響かせて鬼と呼ばれた。

         二

 宮本武蔵は主家|新免《しんめん》氏に従って、関ヶ原の戦《たたかい》に参加した。新免氏は浮田の家臣であるから石田方である。浮田家の滅亡と共に新免氏は筑前の黒田家に従う事となったので西へ下る、その旅の中に武蔵は従っていたのである。
 武蔵の父は十手の名人で無二斎と称し、主人、新免氏の姓を名乗る事を許されて、新免無二斎とも称していたが、この人夫妻の墓は美作《みまさか》の国|英田郡《あいだごおり》字宮本と云う所に有る。そして此処に武蔵の屋敷跡も、新免氏の居城の跡もある。系図によると素《もと》は平田氏とも平尾氏とも云って居たが、この宮本村へ移ってから宮本氏を称したとするのが本当で、此処で武蔵は生れたのである。尤《もっと》も武蔵の祖先に播州の旧家赤松氏の支族があるから、播州に縁の無い事もないし、
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