白楊《やなぎ》がもう青々と芽を出していたが、家鴨《あひる》が五六羽ギャアギャア鳴いて、番傘と蛇《じゃ》の目《め》傘《がさ》とがその岸に並べて干されてあった。町に買い物に来た近所の百姓は腰をかけてしきりに饂飩《うどん》を食っていた。
並んで歩く親子の後ろ姿は、低い庇《ひさし》や地焼《じやき》の瓦《かわら》でふいた家根や、襁褓《むつき》を干しつらねた軒や石屋の工作場や、鍛冶屋《かじや》や、娘の青縞を織っている家や、子供の集まっている駄菓子屋などの両側に連なった間を静かに動いて行った。と、向こうから頭に番台を載せて、上に小旗を無数にヒラヒラさしたあめ屋が太鼓をおもしろくたたきながらやって来る。
父親は近在の新郷《しんごう》というところの豪家に二三日前書画の幅《ふく》を五六品預けて置いて来た。今日行っていくらかにして来なければならないと思って、午後から弥勒《みろく》に行く清三といっしょに出かけて来たのである。
ここまで来る間に、父親は町の懇意な人に二人会った。一人は気のおけないなかまの者で、「どこへ行くけえ? そうけえ、新郷へ行くけえ、あそこはどうもな、吝嗇《けち》な人間ばかりで、ねっかららちがあかんな」と言って声高くその中年の男は笑った。一人は町の豪家の書画道楽の主人で、それが向こうから来ると、父親はていねいに挨拶《あいさつ》をして立ちどまった。「この間のは、どうも悪いようだねえ、どうもあやしい」と向こうから言うと、「いや、そんなことはございません。出所がしっかりしていますから、折り紙つきですから」と父親はしきりに弁解した。清三は五六間先からふり返って見ると、父親がしきりに腰を低くして、頭を下げている。そのはげた額を、薄い日影がテラテラ照らした。
加須《かぞ》に行く街道と館林《たてばやし》に行く街道とが町のはずれで二つにわかれる。それから向こうはひろびろした野になっている。野のところどころにはこんもりとした森があって、その間に白堊《しらかべ》の土蔵などが見えている。まだ犁《くわ》を入れぬ田には、げんげが赤い毛氈《もうせん》を敷いたようにきれいに咲いた。商家の若旦那らしい男が平坦な街道に滑《なめ》らかに自転車をきしらして来た。
路は野から村にはいったり村から野に出たりした。樫《かし》の高い生垣《いけがき》で家を囲んだ豪家もあれば、青苔《あおごけ》が汚なく生《は》えた溝《みぞ》を前にした荒壁の崩れかけた家もあった。鶏の声がところどころにのどかに聞こえる。街道におろし菓子屋が荷を下《おろ》していると、髪をぼうぼうさせた村の駄菓子屋のかみさんが、帯もしめずに出て来て、豆菓子や鉄砲玉をあれのこれのと言って入用だけ置かせている。
新郷《しんごう》へのわかれ路が近くなったころ、親子はこういう話をした。
「今度はいつ来るな、お前」
「この次の土曜日には帰る」
「それまでに少しはどうかならんか」
「どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね」
「少しでも手伝ってもらうと助かるがな」
清三は返事をしなかった。
やがて別れるところに来た。新郷へはこれから一田圃《ひとたんぼ》越せば行ける。
「それじゃ気をつけてな」
「ああ」
そこには庚申塚《こうしんづか》が立っていた。禿《はげ》頭の父親が猫背《ねこぜ》になって歩いて行くのと、茶色の帽子に白縞《しろじま》の袴《はかま》をつけた清三の姿とは、長い間野の道に見えていた。
九
その夜は役場にとまった。校長を訪ねたが不在であった。かれは日記帳に、「あゝわれつひに堪《た》へんや、あゝわれつひに田舎《いなか》の一教師に埋《うも》れんとするか。明日! 明日は万事定まるべし。村会の夜の集合! 噫《ああ》! 一語以て後日《ごじつ》に寄す」と書いた。なおくわしくその心持ちを書こうと思ったが、とうてい十分に書き現わし得ようとも思えぬので、記憶にとどめておくことにした。
翌日、朝九時に学校に行ってみた。けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。一時間ばかりしてまた出かけた。
今度はもうその教員はいなかった。授業はすでに始まっていた。生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。女教員のさえた声も聞こえた。清三の胸はなんとなくおどった、教員室にはいると、校長は卓《テーブル》に向かって、何か書類の調物《しらべもの》をしていたが、
「さアはいりたまえ」と言って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子《いす》をすすめた。
「お気の毒でした。ようやくすっかり決《き》まりました。なかなかめんどうでしてな……昨夜の相談でもいろいろの話が出ましてな」こう言って笑って、「どうも村が小さくって、それでやかましい学務委員がいるから困りますよ」
校長は言葉をついで、
「それで家のほうはどうするつもりです? 毎日|行田《ぎょうだ》から通うというわけにもいくまい。まア、当分は学校に泊まっていてもいいけれど……考えがありますか」
「どこか寄宿するよいところがございますまいか」とこれをきっかけに清三が問うた。
「どうも田舎《いなか》だから、格好《かっこう》なところがなくって……」
「ここでなくっても、少しは遠くってもいいんですけれど……」
「そうですな……一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません」
二時間すんだところで、清三は同僚になるべき人々に紹介された。関という準《じゅん》教員は、にこにこと気がおけぬようなところがあった。大島という校長次席は四十五六ぐらいの年かっこうで、頭はもうだいぶ白く、ちょっと見ると窮屈《きゅうくつ》そうな人であるが、笑うと、顔にやさしい表情が出て、初等教育にはさもさも熟達しているように見えた。「はあ、この方が林さん、私は大島と申します。何分よろしく」と言った言葉の調子にも世なれたところがあった。次に狩野《かのう》という顔に疣《ほくろ》のある訓導と杉田という肥った師範《しはん》校出とが紹介された。師範校出はなんだかそッ気ないような挨拶をした、女教員は下を向いてにこにこしていた。
次の時間の授業の始まる前に、校長は生徒を第一教室に集めた。かれは卓《テーブル》のところに立って、新しい教員を生徒に紹介した。
「今度、林先生とおっしゃる新しい先生がおいでになりまして、皆さんの授業をなさることになりました。新しい先生は行田のお方で、中学のほうを勉強していらしって、よくおできになる先生でございますから、皆さんもよく言うことを聞いて勉強するようにしなければなりません」
校長のわきに立って、少しうつむきかげんに、顔を赤くしている新しい先生は、なんとなく困ったような恥ずかしそうな様子に生徒には見えた。生徒は黙って校長の言葉を聞いた。
次の時間には、その新しい先生の姿は、第三教室の卓《テーブル》の前にあらわれた。そこには高等一年生の十二三歳の児童がずらりと前に並んで、何かしきりにがやがや言っていたが、先生がはいって来ると、いずれも眼をそのほうに向けて黙ってしまった。
新しい教師は卓《テーブル》の前に来て椅子《いす》に腰を掛けたが、その顔は赤かった。読本《とくほん》を一冊持って来たが、卓《テーブル》の上に顔をたれたまま、しばしの間は、その教科書の頁《ページ》をひるがえして見ていた。
後ろのほうでささやく声がおりおりした。
教室の硝子戸は埃《ちり》にまみれて灰色に汚《きた》なくよごれているが、そこはちょうど日影が黄《き》いろくさして、戸外では雀《すずめ》が百囀《ももさえずり》をしている。通りを荷車のきしる音がガタガタ聞こえた。
隣の教室からは、女教員の細くとがった声が聞こえ出した。
しばらくして思い切ったというように、新しい教師は顔をあげた。髪の延《の》びた、額の広い眉のこいその顔には一種の努力が見えた。
「第何課からですか」
こう言った声は広い教室にひろがって聞こえた。
「第何課からですか」とくり返して言って、「どこまで教わりましたか」
こう言った時には、もう赤かった顔の色がさめていた。
答えがあっちこっちから雑然として起こった。清三は生徒の示した読本の頁《ページ》をひろげた。もうこの時は初めて教場に立った苦痛がよほど薄らいでいた。どうせ教えずにはすまされぬ身である。どうせ自分のベストをつくすよりほかにしかたがないのである。人がなんと言おうが、どう思おうが、そんなことに頓着《とんじゃく》していられる場合でない。こう思ったかれの心は軽くなった。
「それでは始めますから」
新しい教師は第六課を読み始めた。
生徒は早いしかしなめらかな流るるような声を聞いた。前の老朽《ろうきゅう》教師の低い蜂《はち》のうなるような活気のない声にくらべては、たいへんな違いである。しかしその声はとかく早過ぎて生徒の耳にとまらぬところが多かった。生徒は本よりも先生の顔ばかり見ていた。
「どうです、これでわかりますか」
「いま少しゆっくり読んでください」
いろいろな声があっちこっちから起こった。二度目には、つとめてゆっくりした調子で読んだ。
「どうです、このくらいならわかりますか」
にこにこと笑顔を見せて、なれなれしげにかれは言った。
「先生、あとのはよくわかりました」
「いま少し早くってもようございます」
などと生徒は言った。
「今までは先生にいく度読んでもらいました。二度ですか。三度ですか?」
「二度」
「二度です」
という声がそこにもここにも起こった。
「それじゃこれでいいですな」と清三は生徒の存外無邪気な調子に元気づいて、「でも、初めのが早過ぎましたからいま一度読んであげましょう、よく聞いておいでなさい」
今度のはいっそうはっきりしていた。早くもおそくもなかった。
読める人に手を上げさせて、前の列にいる色の白い可愛い子に読ませてみたり何かした。読めるのもあれば読めぬのもあった。清三は文章の中からむずかしい文字を拾って、それを黒板に書いて、順々に覚えさせていくようにした。ことにむずかしい字には圏点《けんてん》をつけてそのそばに片仮名でルビをふってみせた。卓《テーブル》の前に初めて立った時の苦痛はいつかぬぐうがごとく消えて、自分ながらやりさえすればやれるものだという快感が胸にあふれた。やがて時間が来てベルが鳴った。
昼飯《ひるめし》は小川屋から運んで来てくれた。正午の休みに生徒らはみんな運動場に出て遊んだ。ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事《おにごと》をするものもある。女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくって、綾《あや》を取ったり、お手玉をもてあそんだりしている。運動場をふちどって、白楊《やなぎ》の緑葉がまばらに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。
清三は廊下の柱によりかかって、無心に戯《たわむ》れ遊ぶ生徒らにみとれていた。そこにやって来たのは、関という教員であった。
やさしい眼色《めつき》と、にこにこした円満な顔には、初めて会った時から、人のよさそうなという感を清三の胸に起こさせた。この人には隔《へだ》てをおかずに話ができるという気もした。
「どうでした、一時間おすみになりましたか」
「え……」
「どうも初めてというものは、工合《ぐあ》いの悪いものでしてな……私などもつい三月ほど前にここに来たのですが、始めは弱りましたよ」
「どうもなれないものですから」
この同情を清三もうれしく思った。
「私の前に勤めていた方はどういう方でした」
「あの方はもう年を取ったからやめさせるという噂《うわさ》が前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから教員はやっているんだそうですが……やはり若いものがずんずん出て来るものだから……それに教員をやめても困るッていう人ではありませんから」
「家には財産があるんですか」
「財産ということもありますまいが、子息《むすこ》が荒物屋の店をしておりますから」
「そうですか」
こんな普通な会話もこの若い二人を近づける動機とはなった。二人はベルの鳴るまでそこに立って話した。
午後には理
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