てそれを飛んだりまたいだりする。清三の家では、その日父親が古河《こが》に行ってまだ帰って来なかったので、母親は一人でさびしそうに入り口にうずくまって、苧《お》[#「苧」は底本では「績」]がらを集めて形ばかりの迎え火をした。大家《おおや》の入り口にはいま少し前|焚《た》いた火の残りが赤く闇に見える。
 軒には昨年の盆に清三が手ずから書いた菊の絵の燈籠《とうろう》がさげてある。清三は便所に通うのに不便なので、四五日前から、床《とこ》を下の六畳に移した。
 風にゆらぐ盆燈籠をかれはじっと見ていた。大家の軒の風鈴《ふうりん》の鳴る音がかすかに聞こえる。仏壇には灯《あかり》がついていて、蓮《はす》の葉の上に供《そな》えた団子だの、茄子《なす》や白瓜でつくった牛馬だの、真鍮《しんちゅう》の花立てにさしたみそ萩などが額縁《がくぶち》に入れた絵のように見える。明るい仏壇の中はなんだか別の世界でもあるかのように清三には思われた。
 母親がそこへはいって来て、
「病気でないと、政一《まさいち》(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花も上げてくれる人もないッてさびしがっているだろう」
「ほんとうにさ……」
「父《おとっ》さんがつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……」
「ほんとうに、遠くなって淋しがっているだろう」
 清三は亡くなった弟をしみじみ思った。
「明日あたり私がお参りに行こうかと思っているけれど……」
「ナアに、治ってから行くからいいさ」
 しばらく黙った。
 母子《おやこ》の胸には今月の払《はら》いのことがつかえている。薬代、牛乳――それだけでもかなり多い。今月は父親のかせぎがねっからだめだった上に、母親も病気で毎月ほど裁縫をしなかった。先ほど、医師《いしゃ》から勘定書きを書生が持って来たのを母親は申しわけなさそうにことわっていた。
「なアに、父さんが帰って来れば、どうにかなるから、心配せずにおいでよ」
 と母親はその時言った。
 父親が帰って来てもだめなことを清三は知っている。
「病気さえしなけりゃなア!」
 と清三は突然言った。
 やがて言葉をついで、「こんな病気にかかりさえしなけりゃ、今年はちっとは母さんにも楽をさせられたのになア!」
 母親はオドオドして、
「そんなことを思わないほうがいいよ。それより養生《ようじょう》して!」
「ナアに、こんな病気に負けておりゃせんから、母《おっか》さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありゃしない」
「ほんとうともねえ、お前」
「世の中というものは思いのままにならないもんだ!」
 言葉は強かったが、一種の哀愁は仏壇の灯《あかり》のみ明るい一室に充ちわたった。
        *    *    *    *    *
 隣近所では病人が日増《ひま》しに悪くなるのを知った。医師《いしゃ》が毎日|鞄《かばん》を下げてやって来る。荻生さんが心配そうな顔をしてちょいちょい裏からはいって来る。一週間前までは、蒼白にやせはてた顔をして、頭髪《かみのけ》をぼうぼうさせて、そこらをぶらぶらしている病人の姿を人々はよく見かけたが、このごろでは、もうどっと床について、枕を高く、やせこけて、螽斯《ばった》のようになった手を蒲団《ふとん》の外になげだすようにして寝ているのが垣の間から見える。井戸端などで母親に容体を聞くと、「どうも少しでもいいほうに向かってくれるといいのですけれど……」と言って、さもさも心配にたえぬような顔をした。
 肺病だろうということは誰も皆前から想像していた。「どうも咳嗽《せき》の出るのが変だと思ってました」と隣りの足袋屋《たびや》の細君《さいくん》が言った。「どうも肺病だッてな、あの若いのに気の毒だなア。話好きなおもしろい人だのに……」と大家《おおや》の主人《あるじ》も老妻《かみさん》に言った。「一人息子をあれまで育てて、これからかかろうという矢先にそんな悪い病気に取《と》っつかれては……」と老妻《かみさん》はしみじみと同情した。あっちこっちから見舞いを持って行くものなどもだんだん多くなる。大家の主人《あるじ》がある日一日釣って来た鮒《ふな》を摺《す》り鉢《ばち》に入れて持って行ってやると、めずらしがッて、病人はわざわざ起きて来て見た。それから梨を持って来るものもあれば林檎《りんご》を持って来るものもある。中には五十銭銀貨を一つ包んで来るものもあった。
 転任のむずかしいこと、たとえ転任ができても、この体では毎日の出勤はおぼつかないということがしだいに病人にもわかってきた。かれは郁治《いくじ》にあてて、病気で休んでいれば何か月間俸給がおりるかということを父の郡視学に聞いてもらうように手紙を書いた。やがてその返事が来て埼玉県令十号の十三条に六十日の病気欠席は全俸《ぜんぽう》(願書《がんしょ》診断書付《しんだんしょつ》き)その以後二か月半俸としてあることを報じて来た。

       五十九

 行田の町の中ほどに西洋造《せいようづく》りのペンキ塗《ぬ》りのきわだって目につく家《うち》があった。陶器の標札には医学士原田龍太郎とあざやかに見えて、門にかけた原田医院という看板はもう古くなっていた。
 午前十時ごろの晴れた日影は硝子《がらす》をとおした診察室の白いカアテンを明るく照らした。
 診察が終わって、そこから父親と荻生さんとにたすけられて出て来たのは、二三日来ますます衰弱した清三であった。荻生さんが万一を期して、ヤイヤイ言ってつれて来た親切は徒労に帰した。医師《いしゃ》は父親と友とに絶望的宣告を与えたようなものであった。
 荻生さんが懇意《こんい》なので、別室できくと、
「いま少し早くどうかすることができそうなものだった」
 医師はこう言った。
「やっぱり、肺でしょうか」
「肺ですな……もう両方とも悪くなっている!」
 荻生さんはどうすることもできなかった。眼眩《めまい》がしてそこに立っていられぬ病人をほとんどかかえるようにして車に乗せた。「車に乗せてつれて来るのはちとひどかったね」と言った医師《いしゃ》の言葉を思い出して、「医師をよんでは車代がたいへんだから……五円ではあがらないから、私が車に乗せてつれて行ってあげる」と言ったことを悔いた。
 その二里の街道には、やはり旅商人《たびあきんど》が通ったり、機回《はたまわ》りの車が通ったり、自転車が走ったりしていた。尻をまくって赤い腰巻を出して歩いて行く田舎娘もあった。もう秋風が野に立って、背景をつくった森や藁葺《わらぶき》屋根や遠い秩父《ちちぶ》の山々があざやかにはっきり見える。豊熟した稲は涼しい風になびきわたった。
 幌《ほろ》をかけた車はしずかに街道をきしって行った。
 七色の風船玉を売って歩く老爺《おやじ》のまわりには、村の子供がたかっていた。

       六十

 寺の和尚《おしょう》さんが鶏卵《たまご》の折りを持って見舞いに来た。
 和尚さんもしばらく会わぬ間に、こうも衰弱したかとびっくりした。
 わざと戦争の話などをする。
「旅順がどうも取れないですな」
「どうしてこう長びくんでしょう」
「ステッセルも一生懸命だとみえますな。まだ兵力が足りなくって第八師団も今度旅順に向かって発《た》つという噂《うわさ》ですな」
「第九に第十二に、第一に……、それじゃこれで四個師団……」
「どうもあそこを早く取ってしまわないんではしかたがないんでしょう」
「なかなか頑強《がんきょう》だ!」
 と言って、病人は咳嗽《せき》をした。
 やがて、
「遼陽のほうは?」
「あっちのほうが早いかもしれないッていうことですよ。第一軍はもう楡樹林子《ゆじゅりんし》を占領して遼陽から十里のところに行ってますし、第二軍は海城《かいじょう》を占領して、それからもっと先に出ているようですし……」
「ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなア」
 と清三は慨嘆《がいたん》して、「国家のために勇ましい血を流している人もあるし、千載《せんざい》の一遇《いちぐう》、国家存亡の時にでっくわして、廟堂《びょうどう》の上に立って天下とともに憂《うれ》いている政治家もあるのに……こうしてろくろくとして病気で寝てるのはじつに情《なさけ》ない。和尚さん、人間もさまざまですな」
「ほんとうですな」
 和尚さんも笑ってみせた。
 しばらくして、
「原さんから便りがありますか?」
「え、もう帰って来ます。先生も海城で病気にかかって、病院に一月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです」
「それじゃ遼陽は見ずに……」
「え」
 衰弱した割合いには長く話した。寺にいる時分の話なども出た。
 その翌日は弥勒《みろく》の校長さんが見舞いにやって来た。
「こんなになってしまいました」
 と細い手を出して見せた。
「学校のほうはいいようにしておきますから、心配せずにおいでなさい、欠席届けさえ出しておくと、二月は俸給がおりるんですから」
 校長さんはこう言った。
 戦争の話が出ると、
「おそくも、休暇中には旅順が取れると思ったですけれどなア。よほどむずかしいとみえますな。このごろじゃ容易に取れないなんて、悲観説が多いじゃないですか。常陸丸《ひたちまる》にいろいろ必要な材料が積んであったそうですな」
 こんなことを言った。
 二三日して、今度は関さんが来た。女郎花《おみなえし》と薄《すすき》とを持って来てくれた。弥勒《みろく》の野からとったのであると言った。母親は金盥《かなだらい》に水を入れて、とりあえずそれを病人の枕《まくら》もとに置いた。清三はうれしそうな顔をしてそれを見た。
 関さんはやがて風呂敷包みから、紙に包んだ二つの見舞いの金を出した。一つには金七円、生徒一同よりとしてあった。一つは金五円、下に教員連の名前がずらりと並べて書いてあった。

       六十一

 遼陽の戦争はやがて始まった。国民の心はすべて満州の野に向かって注がれた。深い沈黙の中にかえって無限の期待と無限の不安とが認められる。神経質になった人々の心はちょっとした号外売りの鈴の音にもすぐ驚かされるほどたかぶっていた。そうしている間にも一日は一日とたつ。鞍山站《あんざんてん》から一押《ひとお》しと思った首山堡《しゅざんぽ》が容易に取れない。第一軍も思ったように出ることができない。雨になるか風になるかわからぬうちに、また一日二日と過ぎた。――その不安の情《じょう》が九月一日の首山堡占領の二号活字でたちまちにしてとかれたと思うと、今度は欝積《うっせき》した歓呼の声が遼陽占領の喜ばしい報につれて、すさまじい勢いで日本全国にみなぎりわたった。
 遼陽占領! 遼陽占領! その声はどんなに暗い汚ない巷路《こうじ》にも、どんな深い山奥のあばら家にも、どんなあら海の中の一孤島にも聞こえた。号外売りの鈴の音は一時間といわずに全国に新しいくわしい報をもたらして行く。どこの家でもその話がくり返される、その激しかった戦いのさまがいろいろに色彩《いろどり》をつけて語り合わされる。太子河《たいしが》の軍橋を焼いて退却した敵将クロパトキンは、第一軍の追撃に会ってまったく包囲されてしまったという虚報《きょほう》さえ一時は信用された。
 全都国旗をもって埋まるという記事があった。人民の万歳の声が宮城の奥まで聞こえたということが書いてあった。夜は提灯行列《ちょうちんぎょうれつ》が日比谷公園から上野公園まで続いて、桜田門《さくらだもん》付近|馬場先門《ばばさきもん》付近はほとんど人で埋めらるるくらいであったという。京橋日本橋の大通りには、数万燭の電燈が昼のように輝きわたって、花電車が通るたびに万歳の声が終夜聞こえたという。
 清三はもう十分に起き上がることができなかった。容体《ようだい》は日一日に悪くなった。昨日は便所からはうようにしてかろうじて床にはいった。でも、その枕もとには、国民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあって、やせこけて骨立った手が時々それを取り上げて見る。
 遼陽の占領が
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