した日の光が洪水《こうずい》のように一室にみなぎりわたった。かれはそこで田原秀子にやる手紙を書き、めずらしいいろいろの花を封じ込めてやった。ひで子からも少なくとも一週に一度はかならず返事が来た。歌が書いてあったり、新体詩が書いてあったりした。わが愛するなつかしの教え子とこっちから書いてやると、あっちからは、恋しきなつかしき先生まいると書いてよこした。
四十八
このごろ移転問題が親子の間にくり返された。
学校に自炊していては不自由でもあり不経済でもある。家のつごうからいってもべつに行田に住んでいなければならぬという理由もない。父の商売の得意先もこのごろでは熊谷《くまがや》妻沼《めぬま》方面よりむしろ加須《かぞ》、大越《おおごえ》、古河《こが》に多くなった。離れていて、土曜日に来るのを待つのもつらい。「それにお前も、もう年ごろだから、相応なのがあったら一人嫁をもらって、私にも安心させておくれよ」
母はこう言って笑った。
清三は以前のように反対しようともしなかった。昨年からくらべると、心もよほど折れてきた。たえず動揺した「東京へ」もだいぶ薄らいだ。ある時小畑へやる手紙に、「当年のしら滝は知らずしらずの間に終《つい》に母を護《まも》るの子たらんといたし居り候」と書いたこともある。
「羽生がいいよ……あまり田舎でもしかたがないし、羽生なら知ってる人も二三人はあるからね」
母がこう言うと、
「そうだ、引っ越すなら、羽生がいい。得意先にもちょうどつごうがいい」
父も同意する。
そこには和尚さんもいれば、荻生さんもいる。学校にも一里半ぐらいしかないから、通うのにもそう難儀ではない。清三もこう思った。
荻生さんにも頼んだ。ある日曜日を父親といっしょに羽生に出かけて行ってみたこともあった。その日は第二軍が遼東《りょうとう》半島に上陸した公報の来た日で、一週間ほど前の九連城戦捷《きゅうれんじょうせんしょう》とともに人々の心はまったくそれに奪われてしまった。街道にも町にも国旗が軒《のき》ごとにたえず続いた。
「万歳、万歳!」
突然町の横町からこおどりして飛んで出て来るものもあった。どこの家でもその話ばかりで持ち切って、借家《しゃくや》などを教えてくれるものもなかった。
ねぎ、しゅろ、ひるがお、ままこのしりぬぐいなどが咲き、梨、桃、梅の実は小指の頭ぐらいの大きさになる。ところどころに茶摘《ちゃつ》みをする女の赤い襷《たすき》と白い手拭いとが見え、裸で茶を製している茶師《ちゃし》の唄が通りに聞こえた、志多見原《したみはら》にはいちやくそう、たかとうだいなどの花があった。やがて麦の根元《ねもと》は黄《き》ばみ、菖蒲《あやめ》の蕾《つぼみ》は出で、樫《かし》の花は散り、にわやなぎの花は咲いた。蚕《かいこ》はすでに三眠《さんみん》を過ぎた。
続いてしらん、ぎしぎし、たちあおい、かわほね、のいばら、つきみそう、てっせん、かなめ、せきちくなどが咲き、裏の畑の桐の花は高く薫《かお》った。かや、あし、まこも、すげなどの葉も茂って、剖葦《よしきり》はしきりに鳴く。
金州《きんしゅう》の戦い、大連湾《たいれんわん》の占領――第三軍の編制、旅順の背面《はいめん》攻撃。
「敵も旅順は頑強《がんきょう》にやるつもりらしいですな。どうも海軍だけではだめのようですな」などと校長が言った。旅順の陥落《かんらく》についての日が同僚の間に予想される。あるいは六月の中ごろといい、あるいは七月の初めといい、あるいは八月にはどんなにおくれても取れるだろうと言った。やがて鶏一羽と鶏卵《たまご》十五個の賭《かけ》をしようということになる。そして陥落の公報が達した日には、休日であろうがなんであろうが、職員一統学校に集まって大々的祝宴会を開こうと決議した。
六月にはいると、麦は黄熟《こうじゅく》して刈り取られ、胡瓜《きゅうり》の茎《くき》短《みじか》きに花をもち、水草のあるところには螢《ほたる》が闇《やみ》を縫って飛んだ。ほそい、ゆきのした、のびる、どくだみ、かもじぐさ、なわしろいちご、つゆぐさなどが咲いた。雨は降っては晴れ、晴れてはまた降った。ある日、美穂子の兄からめずらしくはがきが届いた。かれは士官学校を志願したが、不合格で、今では一年志願兵になって、麻布《あざぶ》の留守師団《るすしだん》にいた。「十中八九は戦地におもむく望みあり、幸いに祝せよ」と得意そうに書いてあった。それに限らず、かれは野から畠から町から鋤犁《すきくわ》を捨て算盤《そろばん》を捨て筆を捨てて国事におもむく人々を見て、心を動かさざるを得なかった。海の外には同胞が汗を流し血を流して国のために戦っている。そこには新しい意味と新しい努力がある。平生《へいぜい》政見を異にした政治家も志を一にして公《こう》に奉じ、金を守るにもっぱらなる資本家も喜んで軍事公債に応じ、挙国一致、千載一遇《せんざいいちぐう》の壮挙は着々として実行されている。新聞紙上には日ごとに壮烈なる最後をとげた士官や、勇敢なる偉勲《いくん》を奏した一兵士の記事をもって満たされ、それにつづいて各地方の団隊の熱心なる忠君愛国の状態が見るように記されてある。「自分も体《からだ》が丈夫ならば――三年前の検査に戊《ぼ》種などという憐むべき資格でなかったならば、満洲の野に、わが同胞とともに、銃を取り剣をふるって、わずかながらも国家のためにつくすことができたであろうに」などと思うことも一度や二度ではなかった。かれはまた第二軍の写真班の一員として従軍した原杏花《はらきょうか》の従軍記のこのごろ「日露戦争実記」に出始めたのを喜んで読んだ。恋愛を書き、少女を描《えが》き、空想を生命とした作者が、あるいは砲煙《ほうえん》のみなぎる野に、あるいは死屍《しし》の横たわれる塹壕《ざんごう》に、あるいは機関砲のすさまじく鳴る丘の上に、そのさまざまの感情と情景を叙《じょ》した筆は、少なくともかれの想像をそこにつれて行くのに十分であった。三年前にイタリヤンストロウの意気な帽子をかぶって、羽生の寺の山門からはいって来たその人――酔って詩を吟じて、はては本堂の木魚《もくぎょ》や鐘をたたいたその人が、第二軍の司令部に従属して、その混乱した戦争の巴渦《うずまき》の中にはいっているかと思うと、いっそうその記事がはっきりと眼にうつるような気がする。急行軍の砲車、軍司令官の戦場におもむく朝の行進、砲声を前景にした茶褐色《ちゃかっしょく》のはげた丘、その急忙《きゅうぼう》の中を、水筒を肩からかけ、ピストルを腰に巻いて、手帳と鉛筆とを手にして飛んで歩いている一文学者の姿をかれはうらやましく思った。
ある日|和尚《おしょう》さんに、
「原さんからもお便りがありますか」
と聞くと、
「え、この間金州から絵葉書が来ました」
と和尚さんは机の上から軍事郵便と赤い判の押してある一枚の絵ハガキを取って示した。それには同じく従軍した知名な画家が死屍《しし》のそばに菖蒲《あやめ》が紫に咲いているところを描いていた。
「いい記念ですな」
「え、こういう花がたくさん戦場に咲いてるとみえますな」
「戦記にも書いてありましたよ」
と清三は言った。
四十九
梅雨《さみだれ》の中に一日カッと晴れた日があった。薄い灰色の中からあざやかな青い空が見えて、光線がみなぎるように青葉に照った。行田からの帰《かえ》り途《みち》、長野の常行寺《じょうこうじ》の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。小学校の生徒の列も見えた。
青葉の中から白い旗がなびいた。
戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。清三は山門の中にはいってみた。白い旗には近衛《このえ》歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。五月十日の戦いに、靉河《あいが》の右岸《うがん》で戦死したのだという。フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴《はおりはかま》の村長などがみな会葬した。村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。
遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文《さいもん》を読むところであった。その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。その声は時々絶えてまた続いた。嗚咽《おえつ》する声があっちこっちから起こった。
柩《ひつぎ》が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。軍司令部といっしょに原杏花が出発する時、小学校の生徒が両側に整列して、万歳を唱《とな》えた。その時かれは「爾《なんじ》、幼き第二の国民よ、国家の将来はかかって汝《なんじ》らの双肩《そうけん》にあるのである。健在なれ、汝ら幼き第二の国民よ」と心中に絶叫したと書いてある。その時ほど熱い涙が胸に迫ったことはなかったと書いてある。清三も今そうした思いに胸がいっぱいになった。幼い第二の国民に柩《ひつぎ》を送られる一戦死者の霊――
砲煙のみなぎった野に最後の苦痛をあじわって冷たく横たわった一|兵卒《ぺいそつ》の姿と、こうした梅雨晴《つゆば》れのあざやかな故郷の日光のもとに悲しく営まれる葬式のさまとがいっしょになって清三の眼の前を通った。
「どうせ人は一度は死ぬんだ」
こう思ったかれの頬《ほお》には涙がこぼれた。
かれはいつか寺を出て、例の街道を歩いていた。光線はキラキラした。青葉と青空の雲の影とが野の上にあった。
二三日前からしきりに報ぜられる壱岐沖《いきおき》の常陸丸遭難《ひたちまるそうなん》と得利寺《とくりじ》における陸軍の戦捷《せんしょう》とがくり返しくり返し思い出される。初瀬《はつせ》吉野《よしの》宮古《みやこ》の沈没などをも考えて、「はたして最後の勝利を占めることができるだろうか」という不安の念も起こった。
野にとうご草があるのを見て、それをとった。そばにある名を知らぬ赤い草花は学校の花壇に植えようと思って、根から掘って紙に包み、汚れた手をみそはぎの茂る小川で洗った。ふと一昨日浦和のひで子から来た手紙を思い出して、考えはそれに移る。羽生に移転してからの新家庭に、そのあきらかな笑顔を得たならば、いかに幸福であろうと思った。かれはこのごろひで子を自分の家庭にひきつけて考えることが多くなった。
羽生町の入り口では、東武鉄道の線路人夫がしきりに開通工事に忙しがっていたが、そのそばの藁葺家《わらぶきや》には、色のさめた国旗がヒラヒラと日に光った。
五十
羽生に移転する前日の日記に、かれはこう書いた。
「二十六年|故山《こざん》を出でて、熊谷の桜に近く住むこと数年、三十三年にはここ忍沼《おしぬま》のほとりに移りてより、また数年を出でずして蝸牛《ででむし》のそれのごとく、またも重からぬ殻《から》を負《お》ひて、利根河畔《とねかはん》羽生に移らんとす。奇《く》しきは運命のそれよ、おもしろきは人生のそれよ、回顧一番、笑って昔古びたる城下の緑を出でて去らんのみ。歴史の章はかくのごとく、またかくのごとくして改められん」
羽生の大通りをちょっと裏にはいったところにその貸屋があった。探してくれたのは荻生さんで、持主は二三年前まで、通りで商売をしていた五十ばかりの気のよさそうな人であった。下が六畳に四畳半、二階が六畳、前に小さな庭があって、そこに丈《せい》の低い柿の木が繁っていた。家賃が二円五十銭、敷金が三月分あるのだが、荻生さんのお友だちならそれはなくってもよいという。父親も得意回りのついでに寄ってみて、「まア、あれならいい!」と賛成した。
一週間の農繁休暇を利用して、いよいよ移転することになった。平生《へいぜい》親しくした友だちは多くは離散して、そ
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