明るくついて、人がガヤガヤしている。ピストルが続けざまに鳴った。自殺した男が窓から飛んで来た。
 朝ごとの霜は白かった。夜半の霙《みぞれ》で竹の葉が真白になっていることもあった。ラッケットをさばいて校庭に立っているかれのやせぎすな姿を人々はつねに見た。解けやらぬ小川の氷の上にあおじが飛び、空しい枝の桑畠にはつぐみが鳴き、榛《はん》の根の枯草からは水鶏《くいな》が羽音高く驚き立った。楢《なら》や栗の葉はまったく落ちつくして、草の枯れた利根川の土手はただ一帯に代赭色《たいしゃいろ》に塗られて見えた。田には大根の葉がひたと捨てられてあった。
 月の中ごろに、母親から来た小荷物には、毛糸のシャツがはいっていた。手紙には「寒さ激しく御座候|間《あいだ》あまり寒き時は湯をやすみ、風ひかぬやう御用心くだされたく候、朝夕よきこと悪《あ》しきことにつけお前一人便りに御座候間御身大切に御守《おまも》り被下度《くだされたく》候《そうろう》」と書いてあった。このごろは母を思うの情がいっそう切《せつ》になって、土曜日に帰る途《みち》でも、稚児《ちご》を背に負った親子三人づれの零落した姿などを見ては涙をこぼした。母親もこのごろ清三のきわだってやさしくなったのを喜んだが、しかしまた心配にならぬでもなかった。にわかに気の弱くなったのは病気のためではないかと思った。清三が行くと、賃仕事を午後から休んで、白玉のしる粉などをこしらえてもてなした。寝汗が出るということを聞いて、「お前、ほんとうにお医者《いしゃ》にかかって見てもらわなくっていいのかね」と顔に心配の色を見せて言った。
 時には荻生さんを羽生から誘って来て、宿直室に一夜泊まらせることなどもあった。荻生さんはこのごろ話のある養子の口のことを語って、「その家は君、相応に財産があるんですって、いまに、りっぱな旦那になったら、たんとご馳走をしますよ。君ぐらい一人置いてあげてもいい」などと戯談《じょうだん》を言って快活に笑った。荻生さんは床にはいると、すぐ鼾《いびき》をたてて安らかに熟睡《じゅくすい》した。こうして安らかに世を送り得る人を清三はうらやましく思った。
 関さんはすいかずら[#「すいかずら」に傍点]やじゃのひげ[#「じゃのひげ」に傍点]や大黄[#「大黄」に傍点]などを枯れ草の中に見いだして教えてくれた。寒い冬の中にもきわだって暖かい春のような日があった。野は平らかに、静かに、広く、さびしく、しかも心地よく刈り取られて、榛《はん》のひょろ長い空《むな》しい幹が青い空におすように見られた。かれは午前七時にはかならず起きて、燃ゆるような朝日の影の霜けぶりの上に昇るのを見ながら、いつも深呼吸を四五十度やるのを例にしていた。「どうして、こう気分がすぐれないんだろう。どうかしなくってはしかたがない」などと時にはみずから励ました。しかしやっぱり胃腸の工合《ぐあ》いはよくなかった。寝汗も出た。

       四十二

 ある暖かい日曜に、関さんとつれだって、羽生の原という医師《いしゃ》のもとに診《み》てもらいに出かけた。町の横町に、黒い冠木《かぶき》の門があって、庭の松がこい緑を見せた。白い敷布をかけた寝台《ねだい》が診察室《しんさつしつ》にあって、それにとなった薬局には、午前十時ごろの暖かい冬の日影のとおった硝子《がらす》の向こうに、いろいろの薬剤を盛った小さい大きい瓶《びん》が棚《たな》の上に並べてあるのが見えた。医師は三十七八の髪を長くしたていねいな腰の低い人で、聴診器を耳に当てて、まず胸から腹のあたりを見た。次に、肌をぬがせて背中のあたりを見て、コツコツと軽くたたいた。
「やはり、胃腸が悪いんでしょうな」
 こう言って型のごとき薬を医師はくれた。
 春のような日であった。連日の好晴《こうせい》に、霜解《しもど》けの路《みち》もおおかた乾いて、街道にはところどころ白い埃《ほこり》も見えた。霞《かすみ》につつまれて、頂《いただき》の雪がおぼろげに見える両毛《りょうもう》の山々を後ろにして、二人は話しながらゆるやかに歩いた。野の角《かど》に背を後ろに日和《ひなた》ぼっこをして、ブンブン糸繰《いとく》り車《ぐるま》をくっている猫背の婆さんもあった。名代《なだい》の角の饂飩屋《うどんや》には二三人客が腰をかけて、そばの大釜からは湯気が白く立っていた。野には、日当《ひあ》たりのいい所には草がすでにもえて、なず菜《な》など青々としている。関さんはところどころで、足をとめて、そろそろ芽を出し始めた草をとった。そしてそれを清三に見せた。風呂敷にも包まずに持っている清三の水薬の瓶には、野の暖かい日影がさしとおった。

       四十三

「先生」
 とやさしい声がした。
 障子をあけると、廂髪《ひさしがみ》に結《ゆ》って、ちょっと見ぬ間に非常に大人びた女生徒の田原ひでがにこにこと笑って立っていた。昨年の卒業生で、できのいいので評判であったが、卒業すると、すぐ浦和の師範学校に行った。高等二年生の時から清三が手がけて教えたので、ことにかれをなつかしがっている。高等四年のころに、新体詩などを作ったり和文を書いたりして清三に見せた。家《うち》はちょっとした農家で、散歩の折りに清三が寄ってみたこともあった。あまり可愛がるので、「林先生は田原さんばかり贔屓《ひいき》にしている」などと生徒から言われたこともあった。丸顔の色の白い田舎《いなか》にはめずらしいハイカラな子で、音楽が好きで、清三の教えた新体詩をオルガンに合わせてよく歌った。師範学校の寄宿舎からも、つねに自然の、運命の、熱情のと手紙をよこした。教え子の一人よりなつかしき先生へと書いて来たこともあった。時には、詩をくださいなどと言って来ることもあった。
「田原さん!」
 清三は立ち上がった。
「どうしたんです?」
 続いてたずねた。
「今日用事があって、家《うち》に参りましたから、ちょっとおうかがいしましたの」
 言葉から様子からこうも変わるものかと思うほど大人《おとな》びてハイカラになったのを清三は見た。
「先生、ご病気だって聞きましたから」
「誰に?」
「関先生に――」
「関さんにどこで会ったんです?」
「村の角《かど》でちょっと――」
「なアにたいしたことはないんですよ」と笑って、「例の胃腸です――あまり甘いものを食《く》い過ぎるものだから」
 ひで子は笑った。
 先生と生徒とは日曜日の午後の明るい室に相対してしばし語った。寄宿舎の話などが出た。今年卒業するはずの行田の美穂子の話も出た。いぜんとして昔の親しみは残っているが、女には娘になったへだてがどことなく出ているし、男には生徒としてよりも娘という感じがいつものへだてのない会話をさまたげた。机の上には半分ほど飲んだ水薬の瓶《びん》が夕日に明るく見えていた。清三は今朝友から送って来た「音楽の友」という雑誌をひろげてひで子に見せた。口絵には紀元二百年ごろの楽聖《がくせい》セント、セリシアの像が出ていた。オルガンの妙音から出た花と天使《エンジェル》の幻影とを楽聖はじっと見ている。清三はこの人はローマの貴族に生まれて、熱心なるエホバの信者で、オルガンの創造者であるということを話して聞かせた。美容花《びようはな》のごとくであったということをも語った。
 オルガンの音がやがて聞こえ出した。小使が行ってみると、若い先生が指を動かしてしきりに音を立てているかたわらに、海老茶《えびちゃ》の袴《はかま》を着《つ》けたひで子は笑顔《えがお》をふくんで立った。
 校庭は静かであった。午後の日影に雀がチャチャと鳴きしきった。テニスコートの線があきらかに残っていて、宿直室の長い縁側の隅にラケットやボールや網《ネット》が置いてあるのが見える。庭の一隅《かたすみ》には教授用の草木が植えられてあった。
 ひで子を送って清三はそこに出て来た。
 薔薇《ばら》の新芽が出ているのが目についた。清三はこれをひで子に示して、
「もう芽が出ましたね、早いもんだ、もうじき春ですな」
「ほんとうに早いこと!」
 とひで子はその一葉をつまみ取った。
 やがて校外の路《みち》を急いで帰って行く海老茶袴の姿が見えた。

       四十四

 日露開戦、八日の旅順と九日の仁川《じんせん》とは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗《にっしょうき》が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。
 東京の騒ぎは日ごとの新聞紙上に見えるように思われた。一月《ひとつき》以前から政治界の雲行きのすみやかなのは、田舎《いなか》で見ていても気がもめた。召集令はすでにくだった。村役場の兵事係りが夜に日をついで、その命令を各戸に伝達すると、二十四時間にその管下に集まらなければならない壮丁《そうてい》たちは、父母妻子に別れを告げる暇もなく、あるは夕暮れの田舎道に、あるは停車場までの乗合馬車に、あるは楢林《ならばやし》の間の野の路に、一包みの荷物をかかえて急いで国事《こくじ》におもむく姿がぞくぞくとして見られた。南埼玉《みなみさいたま》の一郡から徴集されたものが三百余名、そのころはまだ東武線ができぬころなので、信越線の吹上駅《ふきあげえき》、鴻巣駅《こうのすえき》、桶川駅《おけがわえき》、奥羽線の栗橋駅、蓮田駅《はすだえき》、久喜駅《くきえき》などがその集まるおもなる停車場であった。
 交通の衝《しょう》に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内《さくない》には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼《かんこ》してその行をさかんにした。清三は行田から弥勒《みろく》に帰る途中、そうした壮丁に幾人《いくたり》もでっくわした。
 旅順《りょじゅん》仁川《じんせん》の海戦があってから、静かな田舎《いなか》でもその話がいたるところでくり返された。町から町へ、村から村へ配達する新聞屋の鈴の音は忙しげに聞こえた。新聞紙上には二号活字がれいれいしくかかげられて、いろいろの計画やら、風説やらが記《しる》されてある。十二日は朝から曇った寒い日であったが、予想のごとく、敵の浦塩艦隊《うらじおかんたい》が津軽海峡《つがるかいきょう》に襲来《しゅうらい》して、商船|奈古浦丸《なこのうらまる》を轟沈《ごうちん》したという知らせが来た。その津軽海峡の艫作崎《へなしざき》というのはどこに当たるか、それをたしかめるため、校長は教授用の大きな大日本地図を教員室にかけた。老訓導も関さんも女教師もみなそこに集まった。
「ははア、こんなところですかな」
 と老訓導は言った。
 清三は浦塩《うらじお》から一直線にやって来た敵の艦隊と轟沈《ごうちん》されたわが商船とを想像して、久しくその掛け図の前に立っていた。
 湯屋でも、理髪舗《とこや》でも、戦争の話の出ぬところはなかった。憎いロシアだ、こらしてやれという爺《じじい》もあれば、そうした大国を敵としてはたして勝利を得らるるかどうかと心配する老人もあった。子供らは旗をこしらえて戦争の真似《まね》をした。けれどがいして田舎は平和で、夜はいつものごとく竹藪《たけやぶ》の外に藁屋《わらや》の灯《あかり》の光がもれた。ちょうど旧暦の正月なので、街道の家々からは、酒に酔《え》って笑う声や歌う声もした。
 このごろかれは朝は六時半に起床し、夜は九時に寝た。正月の餅と饂飩《うどん》とに胃腸をこわすのを恐れたが、しかしたいしたこともなくてすぎた。節約に節約を加えた経済法はだんだん成功して負債《ふさい》もすくなくなり、校長の斡旋《あっせん》で始めた頼母子講《たのもしこう》にも毎月五十銭をかけることもできるようになった。午後の二時ごろにはいつも新聞が来た。戦争の始まってから、互いにかわった新聞を一つずつ取って交換して見ようという約束ができた。国民に万朝報に東京日日に時事、それに前の理髪舗《とこや》から報知を持って来た。
 この多くの新聞を読むことと、日記をつけることと、運動をすることと、節倹をすること
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