を昨年羽生の寺で和尚《おしょう》さんに言ったことを思い出した。たまらなくさびしい気がした。

       三十七

 その年の九月、午後の残暑の日影を受けて、上野公園の音楽学校の校門から、入学試験を受けた人々の群れがぞろぞろと出て来た。羽織袴もあれば洋服もある。廂髪《ひさしがみ》に董《すみれ》色の袴《はかま》をはいた女学生もある。校内からは、ピアノの音がゆるやかに聞こえた。
 その群れの中に詰襟《つめえり》の背広を着て、古い麦稈《むぎわら》帽子をかむって、一人てくてくと塀《へい》ぎわに寄って歩いて行く男があった。靴は埃《ほこり》にまみれて白く、毛繻子《けじゅす》の蝙蝠傘《こうもりがさ》はさめて羊羹色《ようかんいろ》になっていた。それは田舎《いなか》からわざわざ試験を受けに来た清三であった。
 はいっただけでも心がふるえるような天井の高い室、鬚《ひげ》の生えた肥《ふと》ったりっぱな体格をした試験委員、大きなピヤノには、中年の袴をはいた女が後ろ向きになってしきりに妙《たえ》な音を立てていた。清三は田舎の小学校の小さなオルガンで学んだ研究が、なんの役にもたたなかったことをやがて知った。一生懸命で集めた歌曲の譜もまったく徒労《とろう》に属《ぞく》したのである。かれは初歩の試験にまず失敗した。顔を真赤にした自分の小さなあわれな姿がいたずらに試験官の笑いをかったのがまだ眼の前にちらついて見えるようであった。「だめ! だめ!」と独《ひと》りで言ってかれは頭《かしら》を振った。
 公園のロハ台は木の影で涼しかった。風がおりおり心地よく吹いて通った。かれは心を静めるためにそこに横になった。向こうには縁台に赤い毛布《けっと》を敷いたのがいくつとなく並んで、赤い襷《たすき》であやどった若い女のメリンスの帯が見える。中年増《ちゅうどしま》の姿もくっきりと見える。赤い地に氷という字を白く抜いた旗がチラチラする。
 動物園の前には一|輌《りょう》の馬車が待っていた。白いハッピを着た御者《ぎょしゃ》はブラブラしていた、出札所《しゅっさつしょ》には田舎者らしい二人づれが大きな財布から銭《ぜに》を出して札を買っていた。
 東京に出たのは初めてである。試験をすましたら、動物園も見よう、博物館にもはいろう、ひととおり市中《しちゅう》の見物もしよう、お茶の水の寄宿舎に小畑や郁治をも訪ねよう、こういろいろ心の中に計画してやって来た。田舎の空気によごれた今までの生活をのがれて、新しい都会の生活をこれから開くのだと思うと、中学を出たころの若々しい気分にもなれた。昨日|吹上《ふきあげ》の停車場をたつ時には、久しぶりで、さまざまの希望の念が胸にみなぎったのである。かれはロハ台に横《よこ》たわりながら、その希望と今の失望との間にはさまった一場の光景をまた思い浮かべた。
 ロハ台から起き上がる気分になるまでには、少なくとも一時間はたった。馬車はもういなかった。なにがし子爵《ししゃく》夫人ともいいそうなりっぱな貴婦人が、可愛らしい洋服姿の子供を三四人つれてそこから出て来て、嬉々《きき》として馬車に乗ると、御者は鞭《むち》を一|当《あて》あてて、あとに白い埃《ほこり》を立てて、ガラガラときしって行った。その白い埃を見つめたのをかれは覚えている。「せめて動物園でも見て行こう」と思ってかれは身を起こした。
 丹頂《たんちょう》の鶴《つる》、たえず鼻を巻く大きな象、遠い国から来たカンガルウ、駱駝《らくだ》だの驢馬《ろば》だの鹿だの羊だのがべつだん珍らしくもなく歩いて行くかれの眼にうつった。ライオンの前ではそれでも久しく立ちどまって見ていた。養魚室の暗い隧道《とんねる》の中では、水の中にあきらかな光線がさしとおって、金魚や鯛《たい》などが泳いでいるのがあざやかに見えた。水珠《みずたま》がそこからもここからもあがった。
 鴎《かもめ》や鴛鴦《おし》やそのほかさまざまの水鳥のいる前のロハ台にかれはまた腰をおろした。あたりをさまざまな人がいろいろなことを言ってぞろぞろ通る。子供は鳥のにぎやかに飛んだり鳴いたりするのをおもしろがって、柵につかまって見とれている。しばらくしてかれはまた歩き出した。鷹《たか》だの狐《きつね》だの狸《たぬき》だのいるところを通って、猿が歯をむいたり赤い尻を振り立てているところを抜けて、北極熊や北海道の大きな熊のいるところを通った。孔雀《くじゃく》のみごとな羽もさして興味をひかなかった。かれははいった時と同じようにして出て行った。
 東照宮《とうしょうぐう》の前では、女学生がはでな蝙蝠傘《こうもりがさ》をさして歩いていた。パノラマには、古ぼけた日清戦争の画かなんかがかかっていて、札番が退屈そうに欠《あくび》をしていた。
 竹の台に来て、かれはまた三たびロハ台に腰をかけた。
 眼下に横たわっている大都会、甍《いらか》が甍に続いて、煙突《えんとつ》からは黒いすさまじい煙《けむり》があがっているのが見える。あちこちから起こる物音が一つになって、なんだかそれが大都会のすさまじい叫びのように思われる。ここに罪悪もあれば事業もある。功名もあれば富貴《ふうき》もある。飢餓《きが》もあれば絶望もある。新聞紙上に毎日のようにあらわれて来る三面事故のことなども胸にのぼった。
 竹の台からおりると、前に広小路の雑踏《ざっとう》がひろげられた。馬車鉄道があとからあとからいく台となく続いて行く。水撒夫《みずまき》がその中を平気で水をまいて行く。人力車が懸《か》け声ではしって行く。
 しばらくして、清三の姿は、その通りの小さい蕎麦屋《そばや》に見られた。
「いらっしゃい!」
 と若い婢《おんな》の黄いろい声がした。
「ざる一つ!」
 という声がつづいてした。
 清三は夕日のさし込んで来る座敷の一隅《かたすみ》で、誂《あつら》えの来る間を、大きな男が大釜の蓋《ふた》を取ったり閉《た》てたりするのを見ていた。釜の蓋を取ると、湯気が白くぱッとあがった。長い竹の箸《はし》でかき回して、ザブザブと水で洗って、それをざるに手で盛った。「お待ち遠さま」と婢《おんな》はそれを膳に載せて運んで来た。足の裏が黒かった。
 清三はざるを二杯、天ぷらを一杯食って、ビールを一本飲んだ。酔いが回って来ると、少し元気がついた。
「帰ろう。小畑や加藤を訪問したッてしかたがない」
 懐《ふところ》から財布を出して勘定《かんじょう》をした。やがて雑踏の中を停車場に急いで行くかれの姿が見られた。

       三十八

 荻生さんが和尚《おしょう》さんを訪ねて次のような話をした。
「どうも困りますんですがな」
 と荻生さんが例の人のいい調子で、さも心配だという顔をすると、
「それは困りますな」
 と和尚さんも言った。
「どうも思うようにいかんもんですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……」
「校長からお聞きですか」
「いいえ、校長からじかに聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだッて言いますからねえ」
「いったい、あそこは風儀が悪いところですからなア」
「ずいぶんおもしろいんですッて……清三君一人でいると、学校の裏の垣根のところから、声をかけたり、わざと土塊《つちくれ》をほうり込んだりするんですッて。そうして誰もいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです」
「そして、その中に誰か相手ができてるんですか」
「よくわかりませんけれど、できてるんだそうです」
「どうせ、機織《はたおり》かなんかなんでしょう?」
「え」
「困るですな。そういう女に関係をつけては」
 と和尚さんも嘆じた。
 しばらくしてから、
「早くかみさんを持たせたら、どうでしょう」
「この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お袋さんもそう言っていました」
「加藤君のシスターはもらえないのですか」
「先生がいやだッて言うんです……」
「だッて、前にラブしていたんじゃないですか」
「どうですか、清三君、よく話さんですけれど、加藤君と何か仲たがいかなんかしたらしいですな」
「そんなことはないでしょう」
「いや、あるらしいです」
 と荻生さんはちょっととぎれて、「この間も言ってましたよ、僕はこういう運命ならしかたがない。一生独身で子供を相手にして暮らしても遺憾《いかん》がないッて言ってましたよ」
「独身もいいが――そんなことをしてはしかたがない」
「ほんとうですとも」
 と荻生さんは友だち思いの心配そうに、「校長が可愛がってくれてるからいいですけれど、郡視学の耳にでもはいるとたいへんですからな。それに狭い田舎《いなか》ですから、すぐぱッとしてしまいますから……今度来たら、それとなく言っていただきたいものですが……」
「それは言いましょう」
 と和尚さんは言った。
「それに、清三君は体《からだ》が弱いですからな……」
 と荻生さんはやがて言葉をついだ。
「やっぱり胃病ですか」
「え、相変わらず甘いものばかり食っているんですから。甘いものと、音楽と、絵の写生《しゃせい》とこの三つが僕のさびしい生活の慰藉《いしゃ》だなどと前から言っていましたが、このごろじゃ――この夏の試験を失敗してからは、集めた譜は押《お》し入《い》れの奥に入れてしまって、唱歌の時間きりオルガンも鳴《な》らさなくなりましたから」
「よほど失望したんですね」
「え……それは熱心でしたから、試験前の二月ばかりというものは、そのことばかり言ってましたから」
「つまり今度のことなどもそれから来てるんですな」と和尚さんは考えて、「ほんとうに気の毒ですな。ずいぶんさびしい生活ですものなア。それにまじめな性分《しょうぶん》だけ、いっそうつらいでしょうから」
「私みたいにのんきだといいんですけれど……」
「ほんとうに、君とは違いますね」
 と和尚さんは笑った。

       三十九

 清三の借金はなかなか多かった。この二月ばかり、自炊をする元気もなく、三度々々小川屋から弁当を運ばせたので、その勘定《かんじょう》は七八円までにのぼった。酒屋に三円、菓子屋に三円、荒物屋に五円、前からそのままにしてある米屋に三円、そのほか同僚から一円二円と借りたものもすくなくなかった。荻生さんにも四円ほど借りたままになっていた。
 中田に通うころに和尚さんに融通《ゆうずう》してもらった二円も返さなかった。
 金の価値の貴《とうと》い田舎《いなか》では、何よりも先にこれから信用がくずれて行った。

       四十

 ところがどうした動機か、清三は急にまじめになった。もちろん校長からこんこんと説かれたこともあった。和尚さんからもそれとなく忠告された。けれどもそのためばかりではなかった。
 頭が急に新しくなったような気がした。自己のふまじめであったのがいまさらのように感じられてきた。落ちて行く深い谷から一刻も早く浮かびあがらなければならぬと思った。
 失望と空虚《くうきょ》とさびしい生活とから起こった身体《からだ》の不摂生《ふせっせい》、このごろでは何をする元気もなく、散歩にも出ず、雑誌も読まず、同僚との話もせず、毎日の授業もお勤《つと》めだからしかたがなしにやるというふうに、蒼白《あおじろ》い不健康な顔ばかりしていた。どことなく体がけだるく、時々熱があるのではないかと思われることなどもあった。持病の胃はますますつのって、口の中はつねにかわいた。――ふまじめな生活がこの不健康な肉体を通じて痛切なる悔恨《かいこん》をともなって来た。弱かったがしかし清かった一二年前の生活が眼の前に浮かんで通った。
「絶望と悲哀と寂※[#「宀/日/六」、211−12]《せきばく》とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ」
「絶望と悲哀と寂※[#「宀/日/六」、211−13]とに堪へ得らるるごとき勇者たれ」
「運命に従ふものを勇者といふ」
「弱かりしかな、ふまじめなりしかな、幼稚なりしかな、空想児《くうそうじ》なりしかな、今日よりぞわれ勇者たらん、今
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