遇と女に対する自己の関係とをまじめに考えた。自分は小学校教員である。そういうことがちょっとでも知れれば勤めていることはできぬ身の上である。それに、家《いえ》はかろうじて生活していく貧しい生活である。この女といっしょになることができないのは初めからわかりきったことである。この女がある人に身請《みう》けされるなり、年季が満ちて故郷に帰ることができるなりするのをむしろ女のために祝している。清三はゆくりなき縁《えにし》で、こうした関係となっていく二人の状態を不思議にも意味深くも感じた。清三はまた一歩を進めて、今の生活のたつきをも捨てて、貧しい父母――ことに自分を唯一の力と頼む母をも捨てて、この女といっしょになる場合を想像してみた。功名のために、青雲の志を得んがために、母を捨てることができなかったように、やっぱりかれにはどうしてもそうした気にはなれなかった。帰りは、時々|時雨《しぐれ》が来たり日影がさしたりするという日の午後であった。いつもわたる渡良瀬川の渡しを渡って土手の上に来ると、ちょうど眼の前を、白いペンキ塗りの汚れた通運丸《つううんまる》が、煙筒《えんとつ》からは煤煙《ばいえん》をみなぎらし、推進器《すいしんき》からは水を切る白い波を立てて川をくだって行くのが手にとるように見えた。甲板《かんぱん》の上には汚れた白い服を着たボーイが二三人仕事をしているのが小さく見えた。清三は立ちどまってじっとそれを見つめた。白い煙《けむり》が細くズッと立つと思うと、汽笛のとがった響きが灰色に曇った水の上にけたたましく響きわたった。利根川はようようとして流れて下る、逝《ゆ》く者《もの》かくのごとしという感が清三の胸をおそってきた。
三十五
清三の中田通いは誰にも知られずに冬が来てその年も暮れた。その間にも危険に思ったことは二三度はある。一度は村の見知《みし》り越《ご》しの若者の横顔を張《は》り見世《みせ》の前でちらと見た。一度は大高島の渡船《とせん》の中で村の学務委員といっしょになった。いま一度は大越の土手を歩いているとひょっくり同僚の関さんにでっくわした。その時はこれはてっきり看破《かんぱ》されたと胸をドキつかせたが、清三のいつもの散歩癖を知っている関さんは、べつに疑うような口吻《こうふん》をももらさなかった。
けれど菓子屋、酒屋、小川屋、米屋などに借金がだんだんたまった。「林さん、どうしたんだろう。このごろは払《はら》いがたまって困るがなア」と小川屋の主婦は娘に言った。菓子屋の婆《ばばあ》は「今月は少しゃ入れてもらわねえじゃ――よく言ってくんなれ」と学校の小使に頼んだ。小使は小使で「どうしたんだんべい。林さんもとは金持っていたほうだが、このごろじゃねっからお菜も買いやしねえ。いつも漬《つ》け物《もの》で茶をかけて飯をすましてしまうし、肉など何日にも煮て食ったためしがねえ」などとこのごろはあまり菜の残りのご馳走にあずからないで、ぶつぶつと不平そうに独《ひと》り言を言った。同僚の関さんや羽生の荻生さんなどが訪ねて来ても、以前のようにビールも出さなかった。
様子の変なのを一番先きに気づいたのは、やはり行田の母親であった。わざわざ三里の路をやって来ても、そわそわといつも落ち着いていないばかりではない。友だちが東京から帰って来ていても訪問しようでもなく、昔のように相談をしかけてもフムフムと聞いているだけで相手にもなってくれない。それに、なんのかのと言って、毎月のものをおいて行かない。あれほど好きであった雑誌をろくろく買わず、常得意の町の本屋にもカケをこしらえない。母親は息子《むすこ》のこのごろどうかしているのをそれとなく感じて時々心を読もうとするような眼色《めつき》をして、ジッと清三の顔を見つめることがある。
ある時こんなことを言った。
「この間ね、いい嫁があるッて、世話しようッて言う人があるんだがね……お前ももう身もきまったことだし、どうだ、もらう気はないかえ?」
清三は母の顔をじっと見て、
「だッて、自分が食べることさえたいていじゃないんだから」
「それはそうだろうけれど、お前ぐらいの月給で、女房子を養っている人はいくらもあるよ。いっしょになって、学校の近くに引っ越して、倹約して暮らすようにすれば、人並みにはやっていけないことはないよ」
「でもまだ早いから」
「でも、こうして離れていては、お前がどんなことをしているかわからないし」と笑ってみせて、
「それに、お前だッて不自由な思いをして、いつまで学校にいたッてしかたがないじゃないか」
「お母さん、そんなこと言うけれど、僕はまだこれで望みもあるんです。いま少し勉強して中学の教員の免状ぐらいは取りたいと思っているんだから……今から女房などを持ったッてしかたがありゃしない」
「そんな大きな望《のぞ》みを出したッてしかたがないじゃないかねえ」
「だって、僕一人田舎に埋もれてしまうのはいやですもの。一二年はまアしかたがないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少しやってるから、来年あたり試験を受けてみようと思っているんです。今から女房など持っちゃわざわざ田舎に埋れてしまうようなもんだ」
「だッて、はいれたところで学費はどうするんのさねえ?」
「音楽学校は官費があるから」
「そうして家はどうするのだえ?」
「その時は父《おとっ》さんと母《おっか》さんで暮らしてもらうのさ。三年ぐらいどうにでもしてもらわなくっちゃ」
「それはできないことはないだろうけれど、父《おとっ》さんはああいうふうだし、私ばかり苦労しなくっちゃならないから」
清三は黙ってしまった。
またある時は次のような会話をした。
「お前、加藤の雪さんをもらう気はない?」
「雪さん? なぜ?」
「くれてもいいような母《おっか》さんの口ぶりだッたからさ」
「どうして?」
「それとはっきり言ったわけじゃないけれど、たって望めばくれるような様子だッたから」
「いやなこった。あんな白々《しら/″\》しい、おしゃらくは!」
「だッて、郁治さんとはお前は兄弟のようだし、くれさえすりゃ望んでも欲《ほ》しいくらいな娘じゃないかね」
「いやなこった」
「このごろはどうかしたのかえ? 加藤にもめったに行かんじゃないか?」
「利益交換《りえきこうかん》なぞいやなこった!」
こう言って、清三はぷいと立ってしまった。母親にはその意味がわからなかった。
一月には郁治も美穂子も帰っていた。郁治にも二三度会って話をした。美穂子についての話はもうしなかつた。郁治はむしろ消極的に恋愛の無意味を語った。「なぜあんなに熱心になったか自分でもわからない。ちょうどさかりがついたもののようなものだったんだね」と言って笑った。そのくせ郁治と美穂子とはよく相携《あいたずさ》えて散歩した。男は高師の制帽をかぶり、女は新式の庇髪《ひさしがみ》に結《ゆ》って、はでな幅の広いリボンをかけた。小畑の手紙によると二人はもう恋愛以上の交際を続けているらしかった。清三はいやな気がした。
ちょうどそのころ熊谷の小滝の話が新聞に出ていた。「小滝《こたき》の落籍《らくせき》」という見出しで、伊勢崎の豪商に根曳《ねび》きされる話がひやかし半分に書いてある。小滝には深谷の金持ちの息子《むすこ》で、今年大学に入学した情人《いいひと》があった。その男に小滝は並々ならぬ情《なさけ》を見せたが、その家には許婚《いいなずけ》のこれも東京の跡見女学校にはいっている娘があって、とうてい望みを達することができぬので、泣きの涙で、今度いよいよ落籍《ひか》されることになったと書いてある。その豪商は年は四十五六で、女房も子もある。「どうせ一二年辛い年貢《ねんぐ》を納めると、また舞いもどって二度のお勤め、今晩は――と例のあでやかな声が聞かれるだろうから、今からおなじみの方々はその時を待っているそうだ」などとひやかしてあった。ほんとうの事情は知らぬが、清三はそうした社会に生《お》い立《た》った女の身の上を思わぬわけにはいかなかった。思いのままにならぬ世の中に、さらに思いのままにならぬ境遇に身をおいて、うき草のように浮き沈みしていくその人々の身の上がしみじみと思いやられる。小滝のある間は――その美しい姿と艶なる声とのする間は、友人が離散し去っても、幼いころの追憶《おもいで》が薄くなっても、熊谷の町はまだかれのためになつかしい町、恋しい町、忘れがたい町であったが、今はそれさえ他郷の人となってしまった。神燈《じんとう》の影《かげ》艶《なまめ》かしい細い小路をいくら歩いても、にこにこといつも元気のいい顔を見せて、幼いころの同窓のよしみを忘れない「われらの小滝」を見ることはできなくなったのである。清三は三が日をすますと、母親のとめるのをふりはなって、今までにかつてないさびしい心を抱いて、西風の吹き荒れる三里の街道を弥勒《みろく》へと帰って来た。
それでも懐《ふところ》には中田に行くための金が三円残してあった。
三十六
三月のある寒い日であった。
渡良瀬川《わたらせがわ》の渡し場から中田に来る間の夕暮れの風はヒュウヒュウと肌《はだ》を刺《さ》すように寒く吹いた。灰色の雲は空をおおって、おりおり通る帆の影も暗かった。
灯のつくころ、中田に来て、いつもの通り階段《はしご》を上がったが、なじみでない新造《しんぞ》が来て、まじめな顔をして、二階の別の室《へや》に通した。いつも――客がいる時でも、行くとすぐ顔を見せた女がやって来ない。不思議にしていると、やがてなじみの新造《しんぞ》が上って来て、
「おいらんもな、おめでたいことで――この十五日に身ぬけができましたでな」
清三は金槌《かなづち》か何かでガンと頭を打たれたような気がした。
「貴郎《あなた》さんにもな、ぜひゆく前に一度お目にかかりたいッて言っていましたけれど――貴郎《あなた》はちょうどお見えにならんし、急なものだで、手紙を上げてる暇もなし、おいらんも残念がっていましたけれど、しかたがなしに、貴郎《あなた》が来たらよく言ってくれッてな――それにこれを渡してくれッておいて行きましたから」と風呂敷包みを渡した。中には一通の手紙と半紙に包んだ四角なものがはいっていた。手紙には金釘《かなくぎ》のような字で、おぼつかなく別れの紋切《もんき》り形《がた》の言葉が書いてあった。残念々々残念々々という字がいくつとなく眼にはいった。しかし身請《みう》けされて行ったところは書いてなかった。
半紙に包んだのは写真であった。
おばさんは手に取って、
「おいらんも罪なことをする人だよ」
と笑った。
身請けされて行った先は話さなかった。相方《あいかた》はかねて知っている静枝の妹女郎が来た。顔の丸い肥った女だッた。清三は黙って酒を飲んだ。黙ってその妹女郎と寝た。妹女郎は行った人の話をいろいろとして聞かした。清三は黙って聞いた。
翌日は早く帰途についた。存外心は平静であった。「どうせこうなる運命だッたんだ」とみずから口に出して言ってみた。「なんでもない、あたり前のことだ」と言ってみた。けれど平静であるだけそれだけかれは深い打撃を受けていた。
土手に上がる時、
「憎い奴だ、復讐をしてやらなけりゃならん、復讐! 複讐!」
と叫んだ。しかし心はそんなに激してはおらなかった。
麦倉《むぎくら》の茶店では、茶をのみながら、
「もうここに休むこともこれぎりだ」
大高島の渡しを渡って、いつものように間道《かんどう》を行こうとしたが、これも思い返して、
「なアに、もうわかったッてかまうもんか」
で、大越に出て、わざと老訓導の家を訪《と》うた。
老訓導は清三のつねに似ずきわだってはしゃいでいるのを不思議に思った。清三は出してくれたビールをグングンとあおって飲んだ。
「何か一つ大きなことでもしたいもんですなア――なんでもいいから、世の中をびっくりさせるようなことを」
こんなことを言った。そしてこれと同じこと
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