にうとく暮らした。
 毎日四時過ぎになると、前の銭湯の板木《はんぎ》の音が、静かな寒い茅葺《かやぶき》屋根の多い田舎の街道に響いた。
 羽生の和尚《おしょう》さんと酒を飲んで、
「どうです、一つ社会を風靡《ふうび》するようなことをやろうじゃありませんか。なんでもいいですから」
 こんなことを言うかと思うと、「自分はどんな事業をするにしても、社会の改良でも思想界の救済でも、それは何をするにしても、人間として生きている上は生きられるだけの物質は得なければならない。そしてそれはなるべく自分が社会につくした仕事の報酬として受けたいと自分は思う。それには自分は小学校の教員からだんだん進んで中学程度の教員になろうか。それとも自分はこの高き美しき小学教員の生涯を以て満足しようか」などと考えることもある。一方には多くの友だちのようにはなばなしく世の中に出て行きたいとは思うが、また一方では小学教員を尊《たっと》い神聖なものにして、少年少女の無邪気な伴侶《はんりょ》として一生を送るほうが理想的な生活だとも思った。友に離れ、恋に離れ、社会に離れて、わざとこの孤独な生活に生きようというような反抗的な考えも起こった。
 ある日校長が言うた。「どうです。そうして毎日宿直室に泊まっているくらいなら、寺から荷物を持って来て、ここに自炊なりなんなりしているようにしたら……。そうすれば、私のほうでもわざわざ宿直を置かないでいいし、君にも間代《まだい》が出なくって経済になる。第一、二里の道を通うという労力がはぶける」羽生の和尚さんもこの間行った時、「いったいどうなさるんです、こうあけていらしっては間代を頂戴するのもお気の毒だし……それに、冬は通うのにずいぶん大変ですからなア」と言った。清三は寺に寄宿するころの心地と今の心地といちじるしく違ってきたことを考えずにはいられなかった。そのころからくらべると、希望も目的も感情もまったく違ってきた。「行田文学」も廃刊した。文学に集まった友の群れも離散《りさん》した。かれ自身にしても、文学書類を読むよりも、絵画の写生をしたり、音楽の譜の本を集めてオルガンを鳴らしてみたりすることが多くなった。それに、行田にもそうたびたびは行きたくなくなった。かれは月の中ごろに蒲団《ふとん》と本箱とを羽生の寺から運んで来た。

       二十七

「喜平《きへい》さんな、とんでもねえこんだッてなア」
「ほんにさア、今朝行く時、己《おら》アでっくわしただアよ、網イ持って行くから、この寒いのに日振《ひぶ》りに行くけえ、ご苦労なこっちゃなアッて挨拶しただアよ。わからねえもんただよなア」
「どうしてまアそんなことになったんだんべい?」
「ほんにさ、あすこは掘切《ほっきり》で、なんでもねえところだがなア」
「いったいどこだな」
「そら、あの西の勘三さんの田ン中の掘切で死《ご》ねていたんだッてよ。泥深い中に体《からだ》が半分《はんぶん》突っささったまま、首イこうたれてつめたくなったんだッてよ」
「あっけねえこんだなア」
「今日ははア、御賽日《おさいにち》だッてに。これもはア、そういう縁を持って生まれて来たんだんべい」
「わしらもはア、この春《はる》ア、日振《ひぶ》りなんぞはよすべいよ」
 湯気《ゆげ》の籠《こも》った狭《せま》い銭湯の中で、村の人々はこうした噂《うわさ》をした。喜平というのは、村はずれの小屋に住んでいる、五十ばかりの爺《おやじ》で、雑魚《ざこ》や鰌《どじょう》を捕えては、それを売って、その日その日の口をぬらしていた。毎日のように汚ないふうをして、古いつくろった網をかついで、川やら掘切《ほっきり》やらに出かけて行った。途中で学校の先生や村役場の人などにでっくわすと、いつもていねいに辞儀《じぎ》をした。それが今日掘切の中でこごえて死んでいたという。清三は湯につかりながら、村の人々のさまざまに噂《うわさ》し合うのを聞いていた。こうして生まれて生きて死んで行く人をこうして噂し合っている村の人々のことを考えずにはいられなかった。古網《ふるあみ》を張ったまま、泥の中にこごえた体を立てて死んでいた爺《おやじ》のさまをも想像した。茫《ぼう》とした湯気の中に水槽《みずおけ》に落ちる水の音が聞こえた。

       二十八

 授業もすみ、同僚もおおかた帰って、校長と二人で宿直室で話していると、そこに、雑魚《ざっこ》売りがやって来た。
「旦那、鮒《ふな》をやすく買わんけい」
 障子《しょうじ》をあけると、にこにこした爺が、※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2−83−57]《びく》をそこに置いて立っていた。
「鮒はいらんなア」
「やすく負けておくで、買ってくんなせい」
 校長さんは清三を顧《かえり》みて、「君はいりませんか、やすけりゃ少し買って甘露煮《かんろに》にしておくといいがね」と言った。で、二人は縁側に出てみた。
 二つの※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2−83−57]《びく》には、五寸ぐらいから三寸ぐらいの鮒が金色《こんじき》の腹を光らせてゴチャゴチャしている。
「少し小さいな」
 と校長さんは言った。
 「小さいどころか、甘露煮にするにはこのくらいがごく[#「ごく」に傍点]だアな。それに、板倉《いたくら》で取れたんだで、骨は柔《やわ》らけい」
 種類としては質《たち》のいい鮒《ふな》なのを校長はすぐ見てとった。利根川《とねがわ》を渡って一里、そこに板倉沼というのがある。沼のほとりに雷電《らいでん》を祭った神社がある。そこらあたりは利根川の河床《かわぞこ》よりも低い卑湿地《ひしっち》で、小さい沼が一面にあった。上州《じょうしゅう》から来る鮒や雑魚《ざっこ》のうまいのは、ここらでも評判だ。
「幾がけだね?」
「七なら高くはねえと思うんだが」
「七は高い!」
「目方をよくしておくだで七で買ってくんなせい」
「五ぐらいならいいが」
「五なんてそんな値はねえだ。じゃいま半分引くべい」
 清三は校長さんの物を買うのに上手なのを笑って見ていた。六がけで話が決《き》まって、小使がそこに桶《おけ》と摺《す》り鉢《ばち》とを運んで来た。ピンとするほどはかりをまけた鮒はヒクヒクと鰓《あぎと》を動かしている。爺《おやじ》はやがて[#「やがて」は底本では「やがで」]銭《ぜに》を受け取って軽くなった※[#「竹かんむり/令」、第3水準1−89−59]※[#「竹かんむり/省」、第4水準2−83−57]《びく》をかついで帰って行く。
「やすい、やすい。これを煮ておきゃ、君、十日もありますよ」
 こう言って校長さんは、鮒の中でも大きいのを一尾つかんで、「どうも、上州の鮒はいい、コケがまるでこっちで取れたのとは違うんですからな」と言って清三に示した。半分に分けて、小桶に入れて、小使が校長さんの家に持って行った。
 その日は鮒《ふな》の料理に暮れた。俎板《まないた》の上でコケを取って、金串《かなぐし》にそれをさして、囲爐裏《いろり》に火を起こして焼いた。小使はそのそばでせっせと草鞋《わらじ》を造っている。一|疋《ぴき》で金串がまったく占《し》められるような大きなのも二つ三つはあった。薄くこげるくらいに焼いて、それを藁《わら》にさした。
「ずいぶんあるもんだね」と数えてみて、「十九|串《くし》ある」
「やすかっただ、校長さん負けさせる名人だ。これくらいの鮒で六っていう値があるもんかな」
 小使はそばから言った。
 試みに煮てみようと言うので、五串ばかり小鍋に入れて、焜爐《こんろ》にかけた。寝る時|味《あじ》わってみたが骨はまだ固《かた》かった。
 自炊生活は清三にとって、けっきょく気楽でもあり経済でもあった。多くは豆腐と油揚げと乾鮭《からざけ》とで日を送った。鮒の甘露煮は二度目に煮た時から成功した。砂糖をあまり使い過ぎたので、分けてやった小使は「林さんの甘露煮は菓子を食うようだア」と言った。生徒は時々萩の餅やアンビ餅などを持って来てくれる。もろこしと糯米《もちごめ》の粉《こ》で製したという餡餅《あんころ》などをも持って来てくれる。どうかして勉強したい。田舎《いなか》にいて勉強するのも東京に出て勉強するのも心持ち一つで同じことだ。学費を親から出してもらう友だちにも負けぬように学問したいと思って、心理学や倫理学などをせっせと読んだが、余儀なき依頼で、高等の生徒に英語を教えてやったのが始まりで、だんだんナショナルの一や二を持って教《おそ》わりに来るものが多くなって、のちには、こう閑《ひま》をつぶされてはならないと思いながら、夜はたいてい宿直室に生徒が集まるようになった。
 二月の末には梅が咲き初《そ》めた。障子をあけると、竹藪《たけやぶ》の中に花が見えて、風につれていい匂いがする。
 一日《あるひ》、かれは机に向かって、
[#ここから3字下げ]
鄙《ひな》はさびしきこの里に
  さきて出《い》でにし白梅や、
一|枝《え》いだきてただ一人
  低くしらぶる春の歌、
[#ここで字下げ終わり]
 と歌って、それを手帳に書いた。淋しい思いが脈々として胸に上《のぼ》った。ふとそばに古い中学世界に梅の絵に鄙少女《ひなおとめ》を描いた絵葉書のあるのを発見した。かれはそれを手に取ってその歌を書いて、「都を知らぬ鄙少女」と署《しょ》して、さてそれを浦和の美穂子のもとに送ろうと思った。けれど監督の厳重な寄宿舎のことを思ってよした。ふと美穂子の姉にいく子というのがあって、音楽が好きで、その身も二三度手紙をやり取りしたことがあるのを思い出して、譜をつけてそこにやることにした。
 かれは夕暮れなど校庭を歩きながら、この自作の歌を低い声で歌った、「低くしらぶる春の歌」と歌うと、つくづく自分のさびしいはかない境遇が眼の前に浮かび出すような気がして涙が流れた。
 このごろ、友だちから手紙の来るのも少なくなった。熊谷の小畑にも、この間行った時、処世上の意見が合わないので、議論をしたが、それからだいぶうとうとしく暮らした。郁治から来る手紙には美穂子のことがきっと書いてあるので、返事を書く気にもならなかった。それに引きかえて、弥勒《みろく》の人々にはだいぶ懇意になった。このころでは、どこの家《いえ》に行っても、先生先生と立てられぬところはない。それに、同僚の中でも、師範校出のきざな意地の悪い教員が加須《かぞ》に行ってしまったので、気のおける人がなくなって、学校の空気がしっくり自分に合って来た。
 物日《ものび》の休みにも、日曜日にも、たいてい宿直室でくらした。利根川を越えて一里ばかり、高取《たかとり》というところに天満宮があって、三月初旬の大祭には、近在から境内《けいだい》に立錐《りっすい》の地もないほど人々が参詣した。清三も昔一度行ってみたことがある。見世物、露店《ろてん》――鰐口《わにぐち》の音がたえず聞こえた。ことに、手習《てなら》いが上手になるようにと親がよく子供をつれて行くので、その日は毎年学校が休みになる。午後清三が宿直室で手紙を書いていると、参詣に行った生徒が二組三組寄って行った。

       二十九

 発戸《ほっと》には機屋《はたや》がたくさんあった。市《いち》ごとに百|反《たん》以上町に持って出る家がすくなくとも七八軒はある。もちろん機屋といっても軒をつらねて部落をなしているわけではない。ちょっと見ると、普通の農家とはあまり違っていない。蠶豆《そらまめ》、莢豌豆《さやえんどう》の畑がまわりを取り巻いていて、夏は茄子《なすび》や胡瓜《きゅうり》がそこら一面にできる。玉蜀黍《とうもろこし》の広葉《ひろば》もガサガサと風になびく。
 けれど家の中にはいると、様子がだいぶ違う、藍瓶《あいがめ》が幾つとなく入り口の向こうにあって、そこに染工職人がせっせと糸を染めている。白い糸が山のように積んであると、そのそばで雇《やと》い人《にん》がしきりにそれを選《え》り分けている。反物《たんもの》を入れる大きな戸
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