兄のそばにすわって、遠慮なしにいろいろな話をした。
「寄宿生活はずいぶんたいへんでしょう」
清三はこうきくと、
「えゝえゝ、ずいぶんにぎやかですよ。ほかの女学校などと違って、監督がむずかしいのですけど、それでもやっぱり……」
「女学校の寄宿舎なんて、それはたいへんなものさ。話で聞いてもずいぶん愛想《あいそ》がつきるよ」と北川は笑って、「やっぱり、男の寄宿とそうたいして違いはないんだね」
「まさか兄さん」
と美穂子は笑った。
その室《へや》には西日がさした。松の影が庭から縁側に移った。垣の外を荷車の通る音がする。
この春と同じように、二人の友だちは家への帰途を黙って歩いた。言いたいことは郁治の胸にも清三の胸にも山ほどある。しかし二人ともそれに触れようとしなかった。城址《しろあと》の錆《さ》びた沼に赤い夕日がさして、ヤンマが蘆《あし》の梢《こずえ》に一疋、二疋、三疋までとまっている。子児《こども》が長いもち竿《ざお》を持って、田の中に腰までつかって、おつるみの蜻蛉《とんぼ》をさしていた。
石橋近くに来た時、
「今年は夏休みをどうする……どこかへ行くかね?」
郁治は突然こうたずねた。
「まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?」
「僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから」
美穂子がこの夏休暇をここに過ごすということがなんの理由もなしに清三の胸に浮かんで、妬《ねた》ましいような辛い心地がした。
今夜は父母の家に寝て、翌朝早く帰ろうと思った。現に、郁治にもそう言った。けれど路の角《かど》で郁治と別れると、急に、ここにいるのがたまらなくいやになって、足元から鳥の立つように母親を驚かして帰途についた。明朝郁治がやって来て驚くであろうという一種|復仇《ふっきゅう》の快感と、束縛せられている力からまぬがれ得たという念と、たとえがたいさびしい心細い感とを抱いて、かれはその長い夕暮れの街道をたどった。
寺に帰った時は日が暮れてからもう一時間ぐらいたった。和尚《おしょう》さんは庫裡《くり》の六畳の長火鉢のあるところで酒を飲んでいたが、つねに似ず元気で、「まア一杯おやんなさい」と盃《さかずき》をさして、冷やっこをべつに皿に分けて取ってくれた。今まで聞かなかった主僧の幼いころの話が出る。九歳の時、この寺の小僧によこされて、それから七八年の辛抱、その艱難《かんなん》は一通りでなかった。玄関のそばの二畳にいて、この成願寺の住職になることをこのうえもない希望のように思っていた。今でも成願寺住職|実円《じつえん》と書いた落書きがよく見ると残っている。主僧は酔って「衆寮《しゅうりょう》の壁《かべ》」というついこのごろ作った新体詩を歌って聞かせた。
「どうです、君も何か一つ書いてみませんか」
こう言って和尚さんは勧《すす》めた。
清三の胸はこうした言葉にも動かされるほど今宵は感激していた。何か一つ書いてみよう。かれはエルテルを書いてその実際の苦痛を忘れたゲエテのことなどを思い出した。自分には才能という才能もない。学問という学問もない。友だちのように順序正しく修業をする境遇にもいない。人なみにしていては、とてもだめである。かれは感情を披瀝《ひれき》する詩人としてよりほかに光明を認め得るものはないと思った。
「一つ運だめしをやろう。この暑中休暇に全力をあげてみよう。自分の才能を試みてみよう」
かれは和尚さんから、種々の詩集や小説を借りることにした。翌日学校から帰って来ると、和尚さんは東京の文壇に顔を出しているころ集めた本をなにかと持って来て貸してくれた。国民小説という赤い表紙の四六版の本の中には、「地震」と「うき世の波」と「悪因縁《あくいんえん》」という三編がある。それがおもしろいから読めと和尚さんは言った。「むさし野」という本もそのうちにあった。かれは「むさし野」に読みふけった。
七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。久しく会わなかった発戸《ほっと》の小学校の女教員に例の庚申塚《こうしんづか》の角《かど》でまた二三度|邂逅《かいこう》した。白地の単衣《ひとえもの》に白のリボン、涼しそうな装《なり》をして、微笑《ほほえみ》を傾けて通って行った。その微笑の意味が清三にはどうしてもわからなかった。学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚《ぶどうだな》の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用|足《た》しに行こうと企《くわだ》てているものもある、月の初めから正午《ひる》ぎりになっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午《ひる》から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。清三は日課点の調べにあきて、風呂敷包みの中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇《かっ》した人のように熱心に読んだ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと降って通る林の時雨《しぐれ》、水車《みずぐるま》の月に光る橋のほとりに下宿した若い教員、それらはすべて自分の感じによく似ていた。かれはおりおり本を伏せて、頭脳《あたま》を流れて来る感興にふけらざるを得なかった。
三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓《テーブル》の前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習《さらえ》をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜《すいか》などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹《なか》をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結《ゆ》った女生徒と鼻を垂《た》らした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫《すみれ》色の袴《はかま》をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九|連草《れんそう》の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花《あじさい》の花もあった。
十八
暑中休暇はいたずらに過ぎた。自己の才能に対する新しい試みもみごとに失敗した。思いは燃えても筆はこれに伴《ともな》わなかった。五日ののちにはかれは断念して筆を捨てた。
寺にいてもおもしろくない。行田に帰っても、狭い家は暑く不愉快である。それに、美穂子が帰っているだけそれだけ、そこにいるのが苦痛であった。かれは一人で赤城《あかぎ》から妙義に遊んだ。
旅から帰って来たのは八月の末であった。その時、美穂子は、すでに浦和の寄宿舎に帰っていた。行田から羽生、羽生から弥勒《みろく》という平凡な生活はまた始まった。
十九
学校には新しいオルガンが一台|購《か》ってあった。初めての日はちょうど日曜日で、校長も大島さんも来なかった。その夜は宿直室にさびしく寝た。盂蘭盆《うらぼん》を過ぎたあとの夜は美しく晴れて、天の川があきらかに空に横《よこ》たわっている。垣にはスイッチョが鳴いて、村の子供らのそれをさがす提灯《ちょうちん》がそこにもここにも見える。日中は暑いが、夜は露が草の葉に置いて、人の話声がどこからともなく聞こえた。
初めの十日間は授業は八時から十時、次の十日間は十二時まで、それから間もなく午後二時の退校となる。もうそのころは秋の気はあたりに満ちて、雨の降る日など単衣《ひとえ》一枚では冷やかに感じられた。物思うかれの身に月日は早くたった。
高等学校の入学試験を受けに行った小島は第四に合格して、月の初めに金沢へ行ったという噂《うわさ》を聞いたが、得意の文句を並べた絵葉書はやがてそこから届いた。その地にある兼《けん》六公園の写真はかれの好奇心をひくに十分であった。友の成功を祝した手紙を書く時、かれは机に打っ伏して自己の不運に泣かざるを得なかった。
本堂の机の上には乱れ髪、落梅集《らくばいしゅう》、むさし野、和尚《おしょう》さんが早稲田に通うころよんだというエノックアーデンの薄い本がのせられてあった。かれは、「響《ひびき》りんりん」という故郷を去るの歌をつねに好んで吟誦《ぎんしょう》した。その調子には言うに言われぬ悲哀がこもった。庫裡《くり》の玄関の前に、春は芍薬《しゃくやく》の咲く小さい花壇があったが、そこにそのころ秋海棠《しゅうかいどう》の絵のようにかすかに紅《くれない》を見せている。中庭の萩は今を盛りに咲き乱れた。
夜ごとの月はしだいにあきらかになった。墓地と畠とを縁取《へりど》った榛《はん》の並木が黒く空に見えて、大きな芋《いも》の葉にはキラキラと露が光った。
夕飯のあとに、清三は墓地を歩いてみることなどもあった。新墓《にいつか》の垣に紅白の木槿《もくげ》が咲いて、あかい小さい蜻蛉《とんぼ》がたくさん集まって飛んでいる。卒塔婆《そとば》の新しいのに、和尚さんが例の禿筆《ちびふで》をとったのがあちこちに立っている。土饅頭の上に茶碗が水を満たして置いてあって、線香のともったあとの白い灰がありありと残って見えた。花立てにはみそ萩や女郎花《おみなえし》などが供えられてある。古い墓も無縁の墓もかなり多かった。一隅《かたすみ》には行き倒れや乞食の死んだのを埋葬したところもあった。清三は時には好奇《ものずき》に碑の文などを読んでみることがある。仙台で生まれて、維新の時には国事に奔走《ほんそう》して、明治になってからここに来て、病院を建てて、土地の者に慈父のように思われたという人の石碑《せきひ》もあった。製糸工場の最初の経営者の墓は、花崗石《みかげいし》の立派なもので、寄付金をした有志の姓名は、金文字で、高い墓石に刻《ほ》りつけられてあった。それから日清の役《えき》にこの近在の村から出征して、旅順《りょじゅん》で戦死した一等卒の墓もあった。
この墓地とはまったく離れて、裏の林の奥に、丸い墓石が数多く並んでいる。これは歴代の寺の住職の墓である。杉の古樹《こじゅ》の陰に笹《ささ》やら楢《なら》やらが茂って、土はつねにじめじめとしていた。晴れた日には、夕方の光線が斜《なな》めに林にさし透《とお》って、向こうに広い野の空がそれとのぞかれた。雨の日には、梢《こずえ》から雨滴《あまだ》れがボタボタ落ちて、苔蘚《こけ》の生えた坊主の頭顱《あたま》のような墓石《はか》は泣くように見られた。ここの和尚さんもやがてはこの中にはいるのだなどと清三は考えた。肥った背の高いかみさんと田舎《いなか》の寺に埋めておくのは惜しいような学問のある和尚さんとが、こうした淋しい平凡な生活を送っているのも、考えると不思議なような気がする。ふと、二三日前のことを思い出して、かれは微笑した。かれは日記に軽い調子で、
「夕方知らずして、主《しゅ》の坊が Wife とともに湯の小さきに親しみて(?)入れるを見て、突然のことに気の毒にもまた面喰《めんくら》はされつ」と書いたのを思い出した。湯殿は庫裡《くり》の入り口からはいられるようになっていた。和尚さんは二月ばかり前に、葬儀に用いる棒や板などのたくさん本堂にあったのを利用して大工を雇って来て、そこに格好の湯殿を作って、丸い風呂を据えて湯を立てた。煙《けむり》が勝手から庫裡までなびいた。その日は火をもらおうと思って、茶の間へ行って
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