いじ》へ行った人があったことなどを話した。メリンスの敷き物の上に鐘《かね》がのせられてあって、そのそばに、頭のはげた賓頭顱尊者《びんずるそんじゃ》があった。原は鐘をカンカンと鳴らしてみた。
 雑誌記者から読経《どきょう》をしいられるので、和尚さんは隙《すき》をみて庫裡のほうへ逃《に》げて行ってしまった。酔った二人は木魚と鐘とをやけにたたいて笑った。
 ドタドタとけたたましい音をさせて、やがて二人は廊下から庫裡へ行ってしまった。あとで、六畳にいる若い友だちは笑った。
「文学者なんていうものは存外のんきな無邪気なものだねえ」
 清三はこういうと、
「想像していたのとはまるで違うね」
 若い人々には、かねがねその名を聞いて想像していた文学者や雑誌記者がこうした子供らしい真似をしようとは思いもかけなかった。しかしこうしたことをする心持ちや生活は、かれらには十分にはわからぬながらもうらやましかった。
 東京の客は一夜泊まって、翌日の正午、降りしきる雨をついて乗合馬車で久喜《くき》に向かって立った。袴《はかま》をぬらして清三が学校から帰って来て、火種《ひだね》をもらおうと庫裡にはいってみると、主僧はさびしそうにぽつねんとひとり机にすわって書を見ていた。
 剖葦《よしきり》はしきりに鳴いた。梅雨《つゆ》の中にも、時々晴れた日があって、あざやかな碧《みどり》の空が鼠《ねずみ》色の雲のうちから見えることもある。美しい光線がみなぎるように裏の林にさしわたると、緑葉が蘇《よみが》えったように新しい色彩をあたりに見せる。芭蕉の広葉は風にふるえて、山門の壁のところには蜥蜴《とかげ》が日に光ってちょろちょろしている。前の棟割《むねわり》長屋では、垣から垣へ物干竿をつらねて、汚ない襤褸《ぼろ》をならべて干した。栗の花は多く地に落ちて、泥にまみれて、汚なく人に踏《ふ》まれている。蚊はもう夕暮れには軒に音を立てるほど集まって来て、夜は蚊遣《かや》り火の煙《けむり》が家々からなびいた。清三は一円五十銭で、一人寝の綿|蚊帳《がや》を買って来て、机をその中に入れて、ランプを台の上にのせて外に出して、その中で毎夜遅くまで書《ほん》を読んだ。自分のまわりには――日ごとによせられる友だちの手紙には、一つとして将来の学問の準備について言って来ないものはない。高等師範に志しているものは親友の郁治を始めとして、三四人はあるし、小島は高等学校の入学試験をうけるのでこのごろは忙しく暮らしていると言って来るし、北川は士官学校にはいる準備のために九月には東京に出ると言っているし、誰とて遊んでいるものはなかった。清三もこれに励まされて、いろいろな書《しょ》を読んだ。主僧に頼んで、英語を教えてもらったり、その書庫《ほんばこ》の中から論理学や哲学史などを借りたりした。机のまわりには、文芸倶楽部や明星や太陽があるかと思うと、学校教授法や通俗心理学や新地理学や、代数幾何の書などが置かれてある。主僧が早稲田に通うころ読んだというシェークスピアのロメオやテニソンのエノックアーデンなどもその中に交っていた。
 若いあこがれ心は果てしがなかった。瞬間ごとによく変わった。明星をよむと、渋谷の詩人の境遇を思い、文芸倶楽部をよむと、長い小説を巻頭に載せる大家を思い、友人の手紙を見ると、しかるべき官立学校に入学の計画がしてみたくなる。時には、主僧にプラトンの「アイデア」を質問してプラトニックラヴなどということを考えてみることもあった。「行田文学」にやる新体詩も、その狭い暑苦しい蚊帳《かや》の中で、外のランプの光が蒼《あお》い影をすかしてチラチラする机の上で書いた。
 学校の校長は、検定試験を受けることをつねにすすめた。「資格さえあれば、月給もまだ上げてあげることができる。どうです、林さん、わけがないから、やっておきなさい!」と言った。
 このごろでは二週間ぐらい行田に帰らずにいることがある。母が待っているだろうとは思うが、懐《ふところ》が冷やかであったり、二里半を歩いて行くのがたいぎであったり、それよりも少しでも勉強しようと思ったりして、つねに寺の本堂の一間に土曜日曜を過ごした。しかしこれといって、勉強らしい勉強をもしなかった。土曜日には小畑が熊谷からきて泊まって行った。郁治が三日ぐらい続けて泊まって行くこともあった。それに、荻生君は毎日のようにやって来た。学校から帰ってみると、あっちこっちを明《あ》けっ放《ぱな》して顔の上に団扇《うちわ》をのせて、いい心地をして昼寝をしていることもある。かれは郵便局の閑《ひま》な時をねらって、同僚にあとを頼んで、なんぞといっては、よく寺に遊びに来た。
 若い二人はよく菓子を買って来て、茶をいれて飲んだ。くず餅、あんころ、すあまなどが好物で、月給のおりた時には、清三はきっと郵便局に寄って、荻生君を誘って、角《かど》の菓子屋で餅菓子を買って来る。三度に一度は、「和尚《おしょう》さん、菓子はいかが」と庫裡《くり》に主僧を呼びに来る。清三の財布に金のない時には荻生君が出す。荻生君にもない時には、「和尚さんはなはだすみませんが、二三日のうちにおかえししますから、五十銭ほど貸してください」などと言って清三が借りる。不在に主僧がその室《へや》に行ってみると、竹の皮に食い余《あま》しの餅菓子が二つ三つ残って、それにいっぱいに蟻《あり》がたかっていることなどもあった。
 梅雨《つゆ》の間は二里の泥濘《どろ》の路《みち》が辛かった。風のある日には吹きさらしの平野《へいげん》のならい、糸のような雨が下から上に降って、新調の夏羽織も袴《はかま》もしどろにぬれた。のちにはたいてい時間を計って行って、十銭に負けてもらって乗合馬車に乗った。ある日、その女も同じ馬車に乗って発戸河岸《ほっとがし》の角《かど》まで行った。その女というのは、一月ほど前から、町の出《で》はずれの四辻《よつつじ》でよく出会った女で、やはり小学校に勤める女教員らしかった。廂髪《ひさしがみ》に菫色《すみれいろ》の袴をはいて海老茶《えびちゃ》のメリンスの風呂敷包みをかかえていた。その四辻には庚申塚《こうしんづか》が立っていた。この間郁治といっしょに弥勒《みろく》に行く時にも例のごとくその女に会った。
「どうしてああいう素振《そぶ》りをするのか僕にはわからんねえ」と清三が笑いながら言うと、「しっかりしなくっちゃいかんよ、君」と郁治は声をあげて笑った。その時、どこに勤めるのだろうという評判をしたが、馬車にいっしょに乗り合わせて、発戸《ほっと》にある井泉村《いずみむら》の小学校に勤める人だということがわかった。色の白い鼻のたかい十九ぐらいの女であった。
 雨の盛んに降る時には、学校の宿直室に泊まることもあった。学校に出てから、もう三月にもなるのでだいぶ教師なれがして、郡視学に参観されても赤い顔をするような初心《うぶ》なところもとれ、年長の生徒にばかにされるようなこともなくなった。行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞いていたが、弥勒のような田舎《いなか》の学校には、そうしたむずかしいこともなかった。師範出の杉田というのがいやにいばるのが癪《しゃく》にさわるが、自分は彼奴等《きゃつら》のように校長になるのを唯《ゆい》一の目的に一生小学校に勤めている人間とは種類が違うのだと思うと、べつにヤキモキする必要もなかった。校長もどっちかといえば、気が小さく神経過敏に過ぎるのがいやだが、しかしがいして温良な君子で、わる気というようなところは少しもなかった。関さんは例の通りの好人物、大島さんは話し好きの合い口――清三にとってこの小学校はあまりいごこちの悪いほうではなかった。
 清三は一人でよくオルガンをひいた。型の小さい安いオルガンで、音もそうたいしてよくはなかったが、みずから好奇《ものずき》に歌などを作って、覚束《おぼつか》ない音楽の知識で、譜を合わせてみたりなんかする。藤村詩集にある「海辺の曲」という譜のついた歌はよく調子に乗った。それから若菜集の中の好きな句を選んで譜をつけてひいてもみた。梅雨《つゆ》の降りしきる夕暮れの田舎道、小さなしんとした学校の窓から、そうしたさまざまの歌がたえず聞こえたが、しかし耳を傾けて行く旅客もなかった。
 清三の教える室《へや》の窓からは、羽生から大越《おおごえ》に通う街道が見えた。雨にぬれて汚ない布《ぬの》を四面に垂《た》れた乗合馬車がおりおり喇叭《らっぱ》を鳴らしてガラガラと通る。田舎娘が赤い蹴出《けだ》しを出して、メリンスの帯の後ろ姿を見せて番傘をさして通って行く。晴れた日には、番台を頭の上にのせて太鼓をたたいて行くあめ屋、夫婦づれで編笠《あみがさ》をかぶって脚絆《きゃはん》をつけて歩いて行くホウカイ節《ぶし》、七色の護謨風船《ごむふうせん》を飛ばして売って歩く爺《おやじ》、時には美しく着飾った近所の豪家の娘なども通った。県庁の役人が車を五六台並べて通って行った時には、先生も生徒もみんな授業をよそにして、その威勢のいいのにみとれていた。
 清三の父親は、どうかすると、商売のつごうで、この近所まで来ることがある。縞《しま》の単衣《ひとえ》に古びた透綾《すきや》の夏羽織を着て、なかばはげた頭には帽子もかむらず、小使部屋からこっそりはいってきて、「清三はいましたか」と聞いた。初めはさすがにこうした父親を同僚に見られるのを恥ずかしく思ったが、のちにはなれて、それほどいやとも思わなくなった。近所に用事が残っているというので、清三は寺に帰るのをやめて、親子いっしょに煎餅蒲団《せんべいぶとん》にくるまって宿直室に寝ることなどもあった。
 その時はきっと二人して手拭いを下げて前の洗湯に行く。小川屋から例の娘が弁当をこしらえて持って来る。食事がすむと、親子は友だちのように睦《むつ》まじく話した。家の困る話なども出た。ありもせぬ財布から五十銭借りられて行くことなどもある。
 七月にはいっても雨は続いて降った。晴れ間には日がかっと照って、鼠《ねずみ》色の雲の絶え間から碧《みどり》の空が見える。畑には里芋の葉が大きくなり、玉蜀黍《とうもろこし》の広葉がガサガサと風になびいた。熊谷の小島は一高の入学試験を受けに東京に出かけたが、時々絵葉書で状況を報じた。英語がむずかしかったことなどをも知らせて来た。郵便|脚夫《きゃくふ》は毎日雨にぬれて山門から本堂にやって来る。若い心にはどのようなことでもおもしろい種になるので、あっちこっちから葉書や手紙が三四通は必ず届いた。喝《かつ》!――と一字書いた端書《はがき》があるかと思うと、蕎麦屋《そばや》で酒を飲んで席上で書いた熊谷の友だちの連名の手紙などもある。石川からは、相変わらずの明星攻撃、文壇照魔鏡《ぶんだんしょうまきょう》という渋谷の詩人夫妻の私行をあばいた冊子《さっし》をわざと送り届けてよこした。中にも郁治から来たのが一番多かった。恋の悩みは片時《かたとき》もかれをして心を静かならしめることができなかった。郁治はある時は希望に輝き、ある時は絶望にもだえ、ある時は自己の心の影を追って、こうも思いああも思った。清三の心もそれにつれて動揺せざるを得なかった。自己の失恋の苦痛を包むためには、友の恋に対する同情の文句がおのずから誇大的にならざるを得なかった。――独りもだゆるの悲哀は美しきかな、君が思ひに泣かぬことはあらじ――わざと和文調に書いて、末に、「この子もと罪のきづなのわなは知らず迷うて来しを捕はれの鳩」という歌を書きなどした。浦和の学校にいる美穂子の写真が机の抽斗《ひきだ》しの奥にしまってあった。雪子といま一人きよ子という学校友だちと三人して撮《うつ》した手札形で、美穂子は腰かけて花を持っていた。それを雪子のアルバムからもらおうとした時、雪子は、「それはいけませんよ。変なふうに写っているんですもの」と言って容易にそれをくれると言わなかった。雪子は被皮《ひふ》を着て、物に驚いたような頓狂《とんきょう》な顔をしていた。それに引きかえて、美穂子は明るい眼
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