急瀬の壯よりも、寧ろ清淺晶玉の美である。山にも大谷の峽谷に見るやうな烈しい強い男性的の氣分を持つてゐない。線からして既に柔かで瀟洒である。しかしこの谷には大谷の谷にない温泉が處々に湧出した。それに、近頃では軌道が出來た。まご/\すると、箱根もその繁華の半を此處に奪はれるやうにならぬとも限らない。
この二つの山水の谷に比べると、鬼怒川の溪谷は、平凡ではあるが規模は大きい。何處かと言へば、木曾川、多摩川、久慈川の谷に似てゐる。大谷の谷のやうに岸が迫つてゐない。岩石の奇にも乏しい。しかし中岩橋、籠岩を序幕として、それから瀧の湯附近、更に進んで川治の温泉附近、そこから谷は深く山又山の中に穿つやうに入つて行つて、その源流の鬼怒沼まで十五六里が間、人家は皆山に架し溪に枕《のぞ》み、水の鳴ること佩環《はいくわん》の如く、全く別天地を其處に開いて見せるのであつた。平家の落武者のかくれたといふさびしい山村を……。獵師と岩茸《いはな》採りと鑛山師と熊と岩魚《いはな》とを持つた栗山十三郷の山村を……。
しかし、鬼怒川の水電工事は、この美しい峽谷をも非常に破壞したといふことであつた。文明の氣分は今はこの深
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