籠や車が絶えずその谷の岸を通つて行くので、頗る俗化されて了つたやうなところはあるけれども、それでも山の深いために持つた男性的の烈しい氣分は、決してその峽谷を全く平凡化しては了はなかつた。風は凄じく鳴つた。溪は凄じく怒號した。雲霧は時の間に咫尺を辯ぜぬばかりに襲つて來た。一度洪水が出れば、その凄じい烈しい濁流は例の朱塗の橋をも呑まんばかりの勢を呈した。
 それにその持つた輻射谷にもすぐれた谷が多かつた。般若《はんにや》方等《はうとう》の谷、荒澤の谷、田母澤《たもざは》の谷、すべて美しいシインを到る處に開いた。瀧の多いのも無論その峽谷の色彩を複雜にしてゐるが、それよりも何よりも水の美しいのが好かつた。深澤《みさは》の溪橋あたりの水の美しさは、他の溪谷にはとても見ることの出來ないものであつた。瀞潭の美は紀州の北山川にある。奔瀬の美は肥後の玖磨川にある。しかし瀬の水の美しさは實にこの大谷の峽谷を以て最とした。
 水の美しさは、鹽原の谷も多くこれに讓らない。入勝橋《にふしようけう》から福渡戸《ふくわと》に行くあたりは、殊にすぐれてゐる。しかし、箒川の谷は何方《どつち》かと言へば女性的である。奔湍
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