方へと出て行つたのであつた。僧道鏡の貶せられた藥師寺の趾やその墓の今日猶その附近に殘つてゐるのを見ても、上野《かうづけ》の國府から下野《しもつけ》の國府へとの路の榮えたさまが想像された。萬葉集にある安蘇山の歌は、皆その時分の旅客がこの山巒に添つて旅行してゐる形をよくあらはしてゐるのである。ことに、一番近く平野に落ちてゐる三|毳山《かもやま》の形が面白い。それは東武線の汽車の館林、佐野間を通る時によく見るが、それが絶海の孤島のやうな筑波の翠微と相對して、いかにもひろ/″\とした眺めを成してゐる。そして佐野から出た路は、この山と岩舟、唐澤の山巒の間を通つてずつと下野の國府へと出て行つてゐた。
 下野國志に、室の八島の夕暮の炊煙に包まれたさまを描いた※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]繪が一枚入つてあるが、それを見ると、昔の旅行のさまが歴々《あり/\》と私の眼の前に浮んで見えるやうな氣がした。佐野附近の渡良瀬川《わたらせがは》の渡津《としん》もその時分はかなりに榮えたらしく思はれた。
 この都賀山、安蘇山は、鹿沼《かぬま》からも入つて行ければ、栃木からも入
前へ 次へ
全15ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング