無理に伴れて行つたのですの……石なんかいくつもいくつもわたつて行くんですもの……私、始めの中は、ついて行きましたけれども、しまひには行けなくなつて了つたんですの……。何故ツて、蛇なんか澤山ゐるなんておどかすんですもの……。やつとのことで、手を曳いて行つて貰つたりして、この大きい方のあるところまで行つたんです……』
『まアね』
『それから、あとはみんな長能が採つてくれたんですの……。男でなくつては何うしてもだめね……』
『まア、私も兄さんに伴れて行つて貰はうかしら?』
窕子はいかにも羨しさうにその白い百合の花を眺めた。
『それをさし上げませう! それでは――』
『いただいたのではまだ足りないんですよ。やつぱり男の人につれて行つて貰つて、女ではとゞかないところにあるものを採つて來ればこそ羨しいんですよ。ねえ、呉葉、さうは思はない?』
『お仲が好いですからね』
呉葉も笑つて見せた。
『また、あんなことを……仲が好いなんて……? そんなことちつともないわ。私、無理やり伴れて行かれたんですもの……。あそこ、少し行くと、ひどいところがあるんです。石につかまつて行かなくつちやならないやうな……。私、それから先きには何うしても行けないからツて言つたんですの……。私、待つてゐるつもりだつたの……。ところが、何うしても向う岸にわたれツて言ふんでせう。私、此方にゐると、向うは先にわたつて、その石から私の手を引張るツていふ騷ぎなんですもの……。容易にはあそこには行かれやしませんよ』
『だから羨しいツていふんですよ』
そこに兄の長能がやつて來て、その谷にはまだそれよりも美しい百合がいくらもあるといふ話しをした。
三四
ある日、呉葉がにこにこしながら入つて來た。
『たうとう參りました……』
『…………』
窕子は谷に臨んだ坊の室で、凉しい麻の裳ばかりを着て机に向つて歌の本を讀んでゐたが、いくらかいぶかるやうな顏つきで、急いで此方へと入つて來た呉葉の方を見た。
『殿から……』
『あ……さう……』かう言つて窕子はその消息を入れた文箱を受取つた。
かの女は別にうれしいといふやうな表情は見せなかつた。しかもそれを手にするとそのまゝその消息を取り出して、それをすぐひろげた。すらすらと讀んで行くのが此方に坐つて控へてゐる呉葉にも氣持好く感じられた。
讀みおはるのを待つて、
『別に、おかはりはござりませぬのですか?』
『お前の言つた通り……あまり長くなる……道綱も退屈してゐるだらう……もう歸つて來いツて書いてあるよ』窕子はそれを卷き收めつゝ笑ひながら言つた。
『それはさやうでございませうとも……殿だとて、お待ちかねでいらつしやるには違ひありませぬ……』
『やつぱり道綱はしばらく見ないでゐると、逢ひたうならるると見える……』
『それはさうでございませうとも……』呉葉はかう言つたけれども、にこにこと別なことを考へながら、『それに、何と申しても、眞心と申すものは、最後の勝利者でございますから……』
『…………』
『何處に行つたつて、こちらのやうな眞心を持つたものはございませんから……』
『何うだかわからないね。こつちにだつて、そんなものは持合せてゐるか何うかわからないよ……』
『あんなことを仰しやる!』
『だつて、さうは思はない? いくら此方が眞心を持つてゐても、向うでさうでなければ、さういつまでもその心を持つてゐることは出來なくなるのではない? やつぱりそれはお互ひのことではない……? それはね、その間に何も起つて來なければ好い。誘惑が起つて來なければ好い。しかしさういふ時には、得てさういふ誘惑が起つて來るものだからね。さういふ情に薄い一方の人に比べて、一方の人は實際以上に情に深いやうに見えるのが慣はしだからね……』
『でも……この間、法華經のお話をうかゞひました。そら、一つの心を固く持つてゐて動かない? さういふお話をうかゞひました……。あれとは違ふのでございますか?』
『…………』
窕子はぴたりとそこに行きつまつて了つた。暫くだまつてゐたがやがて笑ひながら、
『お前、よく覺えてゐたね』
『だつて好い話だと思つて心に銘してをりましたのですもの……』
『それにつけても、その一心を持つといふことは難かしいことなんだね。お話できけば、わけはないことだけども、實際にそれを行ふといふことになると、大變なことなのだね……。今、考へた――お前に言はれて考へた。それはさういふ兩方を比べる心持などとは非常に違つてゐるのだツていふことを。もつともつとずつと先きのことなんだね。すぐそんな風に報酬的に考へるやうな心持では、とてもその境地に達することは出來ないのだね……』
『さやうでございませうか?』
『あ、お前に言はれて、好いことを考へた――一言の師と言ふことがあるが、お前はそれだ!』
『そんなことはございませんけど……』
『たしかに、さうだ……。お前がそれを言つて呉れないと、その一心を把持するといふ心持が非常に小さくなつて了ふところだつた……』
そこにまた足音が几帳のかげでして、可愛い雛僧が入つて來た。
『あの使のものが待つてをりますが――お返り言がございますのでございませうかツて?』
『あ! すつかり、こつちの話にまぎれて了つた――今すぐ御返事を上げますからツて』
かう言つて窕子は傍に置いてある机に向つた。
暫くして出來た返事をもとの文箱に入れてそのまゝ呉葉にもたせてやつた。窕子は猶ほじつとして坐つてゐた。下では水の音が靜かに靜かにきこえてゐた。窕子はその一心の把持といふことと報酬的な心持との矛盾を長い長い間深く深く考へてゐた。
不意にあることがかの女の頭に上つて來た。『さうだ、さうだ……その一心の把持といふ言葉の中には、その報酬的な心持が何階も何階も階級を成してゐるのだ……。いゝえ、さうしてつらい報酬的な瞋恚に何遍も何遍も燃え上つたればこそその一心の把持といふ言葉が出て來たのだ……。佛は何遍も何遍もさうした心を通過して、そしてあの言葉を言はれたのだ――』尠くとも今までの心の境地とは丸で違つた心持がそこに展げられて來たやうな氣がした。かの女は言ふに言はれない歡喜を感じた。
三五
ある日は道綱とかをると窕子と三人で出かけた。何でも谷の奧の方に一軒尼寺があつて、そこのあるじは老尼だが、その弟子に歌をよむ若い尼がゐるといふので、果してそこまで行かれるか何うかわからないが、兎に角散歩に出かけて行つて見ようといふことになつた。
路は始めはその谷川に添つて奧へ奧へと入つて行つた。杜鵑が頻りに啼き、いろいろな花が草藪の中に雜つて咲いた。
道綱は行く行く阜斯などを追懸けた。到るところに蝉が鳴いてゐるので……時にはすぐ手近かなところにとまつて、人間の子供なんか馬鹿にでもしてゐるやうに啼いてゐるので、何故蝉を取る袋を持つて來なかつたらうと道綱は後悔した。『だつて母者がわりいんだ……蝉なんか取つてゐる間はないなんて言ふんだもの……それそれ、あそこにミンミン蝉がゐた……』かう言つて地團太を踏んで、しまひにはさもさもくやしさうに礫をそれに打突けた。蝉は不意の襲撃にさも驚いたもののやうに、シュツと言つてそして飛んで遁げた。
『つまらないなア……本當につまらないなア!』
道綱が言ひつゞけた。
『つまらなきやお歸んなさいな……蝉なんか取りにつれて來たんぢやありません!』
『だつて、あんなにゐるんだもの』
こんなことを言つてゐると思ふと、二三歩先きに歩いてゐたかをるがキヤツと言つて夥しく聲を立てた。驚いてそつちを見ると、さう大して大きいといふほどではないが、いくらか赤い斑を見せた三尺ぐらゐの蛇が、するすると路から草原の中へと入つて行くのだつた。
『や、くちなは!』
道綱は別に怖いとも思はずに、却つてその草原へとそのあとを追つて行つた。
『こら、およしつたら……。本當に、此頃、この子が言ふことをきかなくなつたねえ! もし、わるいくちなはでもあつたら何うするんです――』
道綱は路傍に生えてゐる篠竹を折つて、それを鞭のやうにして、まだそこいらに蛇がゐはしないか、ゐたら、今度こそ遁がさないと言つたやうに草原の中を打ちつゝ先に立つた。
『本當に、何うしてこんなにいたづらになつたか……。とても、これでは殿上など出來はしない……』
誰に言ふともなく窕子が言ふと、
『大丈夫ですねえ……。父君がついてゐますね。何んなにでも好くして呉れますねえ!』
傍からかをるが道綱に向つて言ふやうにして言つた。
『伯母者、さつきのくちなはびつくりした?』
『びつくりしたにも何にも……伯母者ふるえ上つた……』
『今度、出たら、麿が生かしては置かない……』
『麿はきついな』
こんなことを言ひながら三人は山の岨のやうなところを通つて行つた。
向うから重さうに粗朶を負うて女がひとり下りて來た。
かをるはそれにきいた。
『尼寺は?』
『尼寺かな……。もうぢきだ……。この林を越すと、もう見えるだ。若い方の尼さん、つい、そこに出てゐたつけ……』
『まだ十町ぐらゐあるかね?』
『そないあるもんか……』
こんなことを言つてすれ違つて行つたが、少し行つて窕子が振返つた時には、その女がその背負つた粗朶をそこに下して、じつと立ちつくしてこつちを見送つてゐのを目にした。
『あゝいふ人にも樂しみといふものはあるんでせうね?』
これはかをるだ。
『それは同じことよ。家にはちやんと立派な男子がひとりゐて、あゝして里に出て粗朶を賣つて來るのを待つてゐるのよ。あなたと同じやうに男子に可愛がられてゐるのよ』
『まア、あのやうなことを――』
『あの粗朶を賣つて、歸りには洒を買うて來る……それを居爐裏の側で男の子が待つてゐる。さういふ生活もこの身には羨ましい……』
『結局、のんきで好いには好いでせうね!』
『こら、こら! そんなところに行つてはいけません!』ちよつと窕子が眼を離してゐる間に、道綱はずつと向うの方へと行つて崖の上見たいなところで頻りに松蟲か何かを搜してゐるのであつた。
『本當にしやうがないねえ!』
『麿!』
かをるも呼んだ。
『もう、行つて了ひますよ』
そしてかれ等は林の中へと路を取つて行くと、やがてその尼寺の屋根が見え出して來た。
その時、道綱はやつとあとから走つて追ついて來たが左の掌につかんだものをそのまゝそつと少しあけて見せて、
『母者! 母者!これ松蟲ね?』
『どれ?』
窕子は覗いて見て、『まア、この子が? 本當に松蟲だ!』
『松蟲! 松蟲!』
と道綱は左の掌を持上げて、そのあたりを飛廻つた。
『待つておいで! 伯母者がよくして上るから――』かをるはつねに用意して持つてゐる紙を胸のあたりから取出して、それを袋のやうにして、『さ! こゝにお入れ!』と言つて、それをそつちへとやつた。道綱は拳の中から巧みにそれをその紙に入れて、その末をひねるやうにした。
『もうこれで大丈夫ね』
道綱はそれを手にしたまゝうれしさうに先に立つた。かれは猶ほ草むらを搜すことをやめなかつた。
やがてその尼寺の前のところへ來た。
そこにゐた小さな女の童は不思議さうにして林の中を此方へとやつて來る三人づれの客を見てゐたが、そのまゝ奧に入つて行つたと思ふと、今度はそのたしか歌のよめるといふ人らしい二十二三の若い尼が出て來た。
それと知ると、その若い尼の顏が急に赤くなつた。まさかに、今の世にきこえてゐる東三條殿の窕子といふ名高い女の歌人がわざわざこの山の中までやつて來ようとは夢にも思ひがけないことであつたからであつた。かの女はすぐ奧へと入つて行つた。
あたふたと老尼も出て來て、下にも置かぬやうにしてそれを迎へた。
『まア、好うこそ、このやうなところにお出くだされました……。坊のおんあるじからお話は承つて居りましたけれど、わざわざ御出下されやうとはゆめ更存じませぬで……』
『まア……ようこそ』若い方の尼もいかにも喜ばしさうな感激したやうな聲を立てた。
窕子だちの眼には、全く
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