すが、こればかりは別才だと見えまして、何うもうまい具合にまとまりません……』
『いゝえ、そんなことは――?』
『お上手な方がおつくりになりますと、それがすらすらと單純に出る。ちつともこだはりなしに――。何うもそれが眞似が出來ません。我々のやうな鈍根なものには何うも材料ばかりが多くなりまして、何を言つた歌だかわからなくなりますので……』
『いゝえ……』
『さうかと申して、それぢや材料が多すぎるのだからいけないのだからと思つて、今度はひとつのことをよまうとすると、それが短かすぎて歌にならない……。何業でも皆なさうでござるが、中でも歌はむづかしい……』
こつちから般若心經の中心になつてゐる心持をきかうなどと思つて出かけて行くと、その先を越して、向うから歌の話を持ち出すといふ風なので、窕子は一層その僧に親しさを感ぜすにはゐられなかつた。時にさうして清くひとりで住んでゐる僧の上にそれに似た自分の生活を持つて行つてくつつけて、いろいろと深い感慨に耽ることもあつた。
『私などにはとても深いことはわかりませんけれども……それでも歌の心持を押しつめて參れば、やはり佛に近づく心が致しますので……』
ある日は窕子はこんなことをそのあるじの僧に言つたりなどした。
それにしても世の中といふものは不思議なものだ――窕子はその坊から下りて來る石段を一歩々々拾ひながらこんなことを常に考へるのだつた。あゝいふ清らかな端麗な異性もある。さうかと思ふと殿のやうに女を女と思はず自分さへ歡樂を恣にすればそれで好いと思つてゐる人もある。情の赴くまゝにまかせてしたい三昧のことをしてゐる人だちもある。未來のことなどは少しも思はずに、人の夫であらうが、人の妻であらうが、そんなことには頓着せずに、たゞ愛慾にのみ耽つてゐる人だちもある。何が何だかわからない。さういふのが罪なのか、それともさういふ風に考へるだけでも罪なのか。この尊いお山に參籠してゐる人だちの中にも、こゝを歡樂の庭のやうに心得てゐるものさへある。あの梅尾などにしてもそのひとりではないか。そしてそれが罪になるのか、それともならないのか。さういふことをするのは人間の心の持前で、何うにもならないのか。自分ながら自分のことがわからなくなつてむしろ自分が可哀相になつて――窕子はじつとそこに立盡したりなどした。
三二
窕子の參籠してゐる室から、すぐ眼の前に山の裾が落ちて來てゐて、下では何方かと言へば靜かな、せゝらぎのやうな水の音が微かにきこえてゐた。
杜鵑がキヨ、キヨ、キヨとすぐ前を啼いて通つた。
來た時に咲いてゐた卯の花の白いのももう見えなくなつて、水ぎはに名の知れない紫の細かい花などが咲き出した。此頃窕子はその若いあるじの僧のことを考へてゐることが著しく多くなつたのを自分でも不思議に微笑まるゝやうな心持でじつと見守るのだつた。本を展げてゐる時にもいつとなくかの女はその僧のことを考へてゐるのに氣が附いた。
三三
唐の僧の祈祷の席にも窕子はたびたび出かけた。かの女はそこにも大勢の參籠者がさまざまの願望を抱て手を合せてゐるのを目にした。子に對する苦しみ。子の病に對する苦しみ。妻の夫に對するもだえ。夫の妻に對する悲しみ。さういふ苦みやらもだえやらを持つた人だちは皆なそこに來て坐つた。位記や官名を持つた人だちのためには、別に設けられた席などもあつて、あの肥つた大納言夫妻の姿も常にそこに見られた。
窕子もいつもそこに案内されるのだが、かの女はその姿の人の目に立つことを嫌つて、わざとあまり派手々々しくない裳を着て、大勢の群の中に雜つてその祈祷の讀經を聞くやうにした。その唐の僧といふのは、昔の鐡眞和尚を思はせるやうな半ば眼の盲いた高徳で、背もさう高い方ではないが、その態度にもその擧動にも何處となく立派なすぐれたところがあつて、それが五六人の僧だちと一緒に入つて來ると,誰も頭を下げて佛の名號を唱へないものはなかつた。何でも世間の噂では、その高僧の一つの祈祷は人間のあらゆる苦痛を和らげ、あらゆる病を醫やし、あらゆる煩悶を輕くするといふことに於いて他に比ぶべきものがないといふほどの功徳を持つてゐるといふことだつた。窕子は少くとも毎日一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]以上小さな珠數をつまさぐりながらじつとしてその光景と相對した。讀經――何とも言はれない冴えて澄んだ聲。長く引張るやうに末は磬のやうに御堂の高い天井にひゞいてきえて行く聲。ひとりの僧の時に觸れ折にふれて鳴らすけたゝましい鉦の響。ことに、その高徳の聖のひとり高く張り上げる聲は高くあたりに、窕子の心の底までもじつと深く染み入るやうにきこえた。
ある日、座光坊のあるじの僧とかの女との間にこんな話が出た。
『あのしまひのところが、密教の行ひと申すのでございませうか?』
『さやうでございます……。あのしまひの方で磬を鳴らすところがござりませう。あそこがあの祈祷の眼目になつてゐるのです……』
『本當に、あそこは難有い心持が致しますの……。やはり、あゝいふところになりますと、心はずつと靜まつて、いろいろな煩惱は皆な小さな、小さなもののやうになつて了ひます……』
『今度の大徳は密教には中々深く通じて居られますから、信用してあの行を見ることが出來るやうな氣が致します、……。さうです、高野の眞言とはいくらか違つてゐるやうです。もつと天臺の智者大師のひろめられたものの方に近いやうでございます……。ですから、密教と申しても餘程初期の感じがまだ殘つてゐるやうでございます……。そこが尊い……そこが他の御堂では味はれないところだと思ひます……』あるじの僧はこんなことを言つて、靜かな調子で、にこやかに笑ひながら、かなり深く難かしいところまで密教の話を持つて行つた。
窕子は益々そつちへと引かれて行くやうな氣がした。自分たちの生活とこの靜かな生活と。瞋恚と煩悶と嫉妬と爭鬪とで滿たされた生活とこの高遠な普通ではわからない學問にのみ精進してゐる生活と。一つは火花を散らしたやうでもすぐ消えてなくなつて了ふ生活と、一つはいつまでもいつまでも人の心に深い教へを殘して行く生活と……。窕子は自分等の平生目にしてゐる殿上人あたりの自墮落な生活をかうした靜かな學問にのみ精進して來た人だちの生活に比較して考ヘずにはゐられなかつた。
かういふ人だちは世間のことなどについては何も知らないのであつた。男女のことも、妻妾のことも、三つの心の巴渦のことも、御門が愛慾におぼれて末の君を無理に宮中に召されたことも、坊の町の細い巷路に結び燈臺が夜おそくまでついてゐてその角に牛車が待つてゐることも何も彼も……。そしてたゞ谷川の水の音を伴侶に深い高遠な學問にのみ心を注いでゐるのだつた。それが窕子には尊く感じられた。窕子はそのあるじの僧から法華經の一番中心を成してゐる思想を聞いたりなどした。
『さうしますと、何ういふことになるのでございませうか?』
と、その僧はにこやかに笑つて、さて少し考へるやうにして、
『歌で申して見ますと、つまりそのひとり手に巧まずに出て來るといふ心持――そこいらに歌は滿ちてゐますけれども、それをつかまうとすると、つかむことが出來ない……何うしても出來ない。學べば學ぶほどむづかしくなる。それでゐながら、ひとり手に出て來る段になると、何の面倒もなくすぐそこにある……。あなたがいつか歌といふものについてさうおつしやられた……。法華經の中心を成してゐるものはやはりそれだと思ひます……』
『つまり、さうしますと、その高遠な思想が何處にでもあるといふことになるのでございますか?』
『さうなります……。何處にでもある。それだから難有いのでございます。たゞ一心といふこと――ひとつの心を持するといふこと、さう言つて了つては或ひは言ひすぎるかも知れませんけれども、つまり他には何もない。その經文を持してゐさへすれば好い。それより他に理窟はない。さういふところに非常に深いところがあるのでございます……あらゆる經文が皆なそこに入つてゐるのでございます――』
『さうしますと、あのお經に書いある字とか、理由とか、方則とか、さういふことよりももつと別なところにその中心がございますのですね』
『まア、さうですな……』
聰明な窕子にもそれだけではまだはつきりとはわからないらしかつた。『その一心といふこと、その一心を持するといふこと――それと佛とは何ういふ關係になりますのでせうか?』などと訊ねた。
一月もゐる中には、その僧と窕子との交際は次第に親しさの度を増して行つた。窕子は一日でもそこに行かなければさびしいやうな氣がした。その癖、それが何うの彼うのといふのではなかつた。かの女はをりをり望まれてそこで短册に歌を書いたりした。ある時には、御堂に行く途中、向うから緋の僧衣を着た僧が二三人やつて來るのに出會つて、初めはさうだとは思ひもしなかつたのに、そのひとりがそのあるじの僧であるのをやがて知つて、急にきまりがわるく、顏がわれながら不思議に思はれるくらゐにサツと染められたことなどもあつた。母親と一緒に行つた時には、いつもの佛の話とは違つて、自分が叡山に登つて修行した時のことや、奈良の唐招提寺に律を研究に一年ほど行つてゐた時の話などをかれはそこに持ち出した。『奈良の寺は方則がきびしいので一番つらうございました。朝は寅の刻に起きて、坐禪をやつたり、讀經をしたり、その間には、教義の議論をしたり、ほとほとひまといふひまはないのですから……。それは皆さんは、私どもなどはのんきに暮してゐるとお考へでせうが、中々これで忙しいのでございます……』などと笑ひながら話した。
ある時、呉葉と二人でゐると、
『京の方がこひしくおなりにまだなりませんか?』
『何うして?』
『何うしてツて言ふこともございませんけども……』
呉葉はいくらか笑を含んだやうな表情だつた。
『でも、今月一杯ゐるつもりで來たんだもの……』
『それはさうでございますけども……家のことだつて心配になりますから……』
『大丈夫だよ』
『でも、殿のことでも、あまり放つてお置きになつては?』
『だつて……』
呉葉の心配する心持がよくわかつてゐるので、窕子は言ひかけてよした。
『この頃、お消息がちつともございませんでせう?――」
『ゐなくつて、うるさくなくつて好いと思つてゐるのよ』
『まさか――』
呉葉は笑つて見せた。
『さうでなけりや――少しでも此方を思つて呉れるのなら、何とか消息くらゐよこしてくれたつて好いんだもの……』
『でも、こちらからおあげになる方が本當ですもの……』
『…………』窕子はこれに對して何か言はうとして、よして、『それよりも、お前、もうあきた?』
『かをるさまやお兄さまは、もうとうに歸りたいやうに仰しやつてでございました……。』
『さう……』
窕子は別にこゝに思ひを殘してゐるわけではなかつた。あるじの僧のことにしても、逢つたり話したりしてゐることの上には多少の興味を感じてゐるけれども、さうかと言つて、こゝに深く心を留めてゐるわけでも何でもなかつた。たとへそれがもつと深く、此方からも心を寄せ、向うからも進んで出て來たにしても、それは何うにもなる間柄ではなく、やつぱり山を出た雲は山に歸り、流れ落ちる谷川は里に向つて出て行かなければならないのだつた。窕子は自分の身の何うにもならないことを今更のやうに感じた。
かをるがそこにやつて來た。百合の花を三本も四本も手に持つてるた。
『まア、好い花! 何處で採つて來ましたの』
『ぢき向うの山――』
かをるは振返つて指した。
『よく、こんなのがありましたね……。まだあるなら、私、採りに行かうかしら?』
『まだ、あるにはありますけども……女の手ではちよつとむりかも知れませんね。長能が取つて呉れたんですの……』
『まア、兄さんが?』
窕子は羨しさうに。
『この下の谷でございますか?』
呉葉は問うた。
『この谷をずつと下まで下りて行つたところです……。とても、私には行けないといふのを
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