――』
『…………』
 だまつてうつむいた窕子の眼からは涙がはらはらと流れた。
『困つた人ぢやのう?』
『母者……』窕子はあることを急に思ひ出したやうに、『母者はあの前の大納言どののつれてゐた人を見て何う思はれた?』
『あの向うの坊の方でお目にかゝつた人かや?』窕子の點頭くのを見て、『別に何うツていふことも思はせなかつたが?』
『此身は涙が出て、涙が出て……』
『何うしてぢや?』
『母者はあの女子のことをよう知らぬのかも知れない……』
『よう知りをる……美しいので名高い姫ぢやつた――』
『母者、この身はあの人があゝいふ病に取憑れたので、それで氣の毒だといふのではない……。それよりも、それよりも』急にたまらなくなつたやうに、『あの、あの大納言どのが……』
『大納言どのが何うしたのや?』
『あの體の大きい、心の大きい、その愛してゐた女子のためには、あゝして職もやめ、つとめもやめて、この山の中までついて來てゐるのを見て……ウ、ウ……この身は、この身は――』
 涙が言葉を遮つた。
 今度は母親がこまつて了つた。窕子の心がはつきりと飮み込めて來た。
 暫くしてから、窕子はやつとその言葉をつぐといふやうに、『母者……母者にもそれがわからないことはなかつたと思ふ。あの大きな體、男らしい物の言ひ振、あれほどまでにして貰ふ仕合せな! その病人の傍を片時も去らずに看護する男子……。さういふ男子もあるんだから……。それを考へると、この身は悲しい。この身は悲しい。この身は涙が出て涙が出て……』
『ようわかつた……。しかし、さう一概に男のことをきめて言ふのはわりい。それはあの大納言どののやつてゐられることは尊い。それはわるいと言はぬ。この身も涙を催うした……。しかし、他の男の子がさうしないからと言つて、それをわるう言ふのは、あまりに物事をきめすぎてゐていけない……。この世の中といふものはさういふものではない。』
『それはさうでせうけれども……あゝされる女子は仕合せだ……。』
 それに比べたら、この身などは何うだと窕子は言ふのだつた。一度だつて見舞にも來て呉れたことはない、行くなら行くで放つて置く、そして自分は勝手に振舞つてゐる……。それはまア好いとしても、さういふ男の子にさういふことを望むは望む方がまちがつてゐるのかも知れぬから、それは好いにしても、それでは此身が可哀相ではないか。何一つつかんだもののないこの身が悲しいではないか。
『ようわかつた、ようわかつた』
 逆らつてはかへつていけぬと思つたので、母親はつとめて窕子の氣を迎へるやうにして言つて、
『その中には好いこともある……。さうわるいことばかりあるものではない……。道綱だつて、さういつまでも子供ではゐない。來々年に殿上することの出來る年ぢや……』
『そんなこと、あてになるものですか? 道綱のことなんか、少しでも考へてゐるんではないから……』
『そんなことはない、それは決してそんなことはない。それは安心しておいで! 殿だつて、そんなに人情のない方ではないのだから……』
 母親が強く壓しつけるやうに言つた。
 窕子にはしかしそれだけでは物足らなかつた。かの女は一つの戀愛と言つたやうなものにあくがれた。二つの心がひとつになつてそれが何ものにも動かされないやうになる戀! 何ものに打突つても決して決して打壞されない戀! 金剛不壞な戀! 十年逢はなくつても一生逢はなくつてもかはらない戀! さうしたものをかの女は常に眼の前に描いた。手を合せる佛の體の中にもそのまことの戀がかくされてあるやうな氣がした。

         三〇

 兄の長能の言つた言葉を窕子は思ひ起した。
 ――『だつて、それは無理だ。殿はさういふ質の人ぢやないんだもの……。殿はそんなことを女子に望んでゐはしないんだもの。殿に取つては、女子は尊いものではないんだもの……。それはおもちやだとは思つてはゐない。さういふ風に一段低くは見てはゐない。更に言ひ換へれば、女子は生活を面白くして呉れるものだくらゐに思うてゐる。だから、とてもお前の言ふやうなわけには行かない。さうかと言つて、それが薄情とか何とかいふのではない。殿だつてつまらなく女を傍によせつけてばかりはゐない……。あれでひとりでつまらなさうな顏をしてゐることもあるんです……。しかし、かういふ氣はあるな。窕子の考へ方と殿の考へ方は正反對で、とてもそれはひとつにはならない……。それが運がわりいといへばわりいのだらうが、たとへそれがひとつになつても、運が好いかわりいかわからない……。こいつは何うも一概には言へないな』――昨夜話してゐる中にこんな言葉が雜つてゐた。母親と兄の長能とかをると窕子と、この四人がおそくまで結燈臺を取卷いて四方山の話をした。中宮のことも出れば登子のことも出た。大納言が昔ひどい遊蕩者であつたことなども出た。長能が此頃ぴたりと女のあそびをやめたことになつて行つた時には、『いや、それはかをるがえらいんぢやない……。世間ではさう言つてゐたにしても、それはさうでない。世間なんて表面きり見ないものだが……つまり一言で言へば女がおもしろくなくなつたんだよ……。いつまでやつてゐたつて、ひとつだつて本當につかめやしないし、際限がないといふ風に何處かで考へはじめたんだよ。何處かで? 本當に何處かでだよ。自分でもはつきりそこが言へないんだよ。そこにうまくかをるがぶつつかつたんだ――そこが運が好いと言へば好いんだ……』などと言つて笑つた。そしてそれからそのつぎつぎへと殿や窕子のことなどが出て行つたのだつた。殿などでもいつまでもあゝしてゐらるゝものではない……。もう好い加減飽きてをられる。こんなことをも長能は言つた。窕子はさうした言葉を頭にくり返しながら、寺の塔のあるところから谷川の見える方へと行つた。そこらには坊が二つも三つもつゞいて、その一つは崖の上から谷を見下ろすやうな位置にあつた。
 谷川の瀬の鳴る音が下の方できこえた。
 かの女はもはや三十に近くなつてゐたけれども、その美しさは少しも衰へず、別におつくりをしなくとも、あたりの眼を惹くに十分だつた。かの女はあちこちから此方を見てゐる眼に出會した。
 それに誰が話すともなく、東三條殿のおもひものだといふことが參籠に來てゐる人だちの間にもそれと知られてゐるらしく、時々そのうしろの方で、さう言つて囁いてゐる氣勢を聞いた。
 殿上人ではないがちよつとしたことから懇意になつたある若い妻は、かの女が歌道に名高い人であることを知つて、かういふ時でなければ教へを乞ふことが出來ないといふやうに、ちよいちよいその坊をたづねて來た。それは名を梅尾と言つてゐた。
 ひよいと氣が附くと、その向うのところに、その梅尾が、藏人頭の下にでもつかはれてゐるやうな、若い、意氣な、縹色の柔かな烏帽子を頭に載せた男と睦しさうに竝んで話しながら歩いてゐるのを目にして『おや!』と窕子は思つた。
 餘程背後から聲をかけようとしたが、きまりをわるがるだらうと思ひ返して、わざとゆる/\と靜かに歩いた。
 かれ等は何う見てもたゞの關係ではなかつた。
 またその梅尾の歌にも、さう言へば、遠くにあるものに心を寄せたやうな歌を見たことが度々あつた。窕子は微笑まれるやうな心持がしながら、その二つの姿から眼を離さなかつた。
 大抵なら、長い間には、そこらにちよつと立留るとか、うしろを振返るとか、横顏を見せるとかするものであつたが、餘程深く話し込んでゐると見えて、足の歩調をゆるめるでもなく、周圍を見廻すでもなく、ひたりと體を押しつけるやうにして、熱心に話しながらたゞ先へ先へと歩いて行つた。
 少くともさうした形で、三町ぐらゐは行つた。
 しまひには此方で勞れた。窕子は路の傍にある榻に身を寄せて、そんなものにいつまで心を寄せてゐても爲方がないといふやうに、今度は下に展げられた溪の流の方へと眼をやつた。そこには石がごろごろころがつて、水がその間をすさまじく碎けて流れてゐた。
 かれ等はそんなことも知らずに――何處まで行つたらその熱心な物語は盡きるだらうといふやうに、やつぱり同じ歩調で肩を竝べて歩いて行つた。その二つの姿はやがて向うの草むらの中へとかくれて行つて了つた。
 何のくらゐゐたか、小半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]くらゐゐたか、それとも半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]くらゐゐたか、自分でも自分がわからずに、草むらに日影のチラチラするのと水のたぎつて落ちて來るのと、黒い斑のある蝶が向うに行つたかと思ふとまた此方へと飛んで來て、そのすぐ前の草の葉にその羽を休めようとしてゐるのとをぢつと見てゐたが、ふと氣が附くと、さつきと同じ歩調の足音がして、やつぱり竝んで、今度は此方を向いて、ふたりが靜かに歩いて來るのを窕子は見た。
 向うでそれと氣のついたのは、ずつと此方へ來てからであつた。
 梅尾は立留つた。その顏は染めたやうに赤くなつた。
『まア……』
『…………』窕子も流石に氣の毒で、此際何と言つて好いかわからなかつた。
 梅尾は一言か二言言つただけで、男を向うに行かせて、そのまゝ此方へとやつて來た。
『好いの?』
『え、え、……もう好いんですの……何でもないんですの……』
『私の方は構はなくつても好いのよ。』
『いゝえ。』
 梅尾はまた顏を赤くした。
『從兄が來たもんですから――』
『從兄?』
 人がわるいと思つたが窕子は思はずかう言つて了つた。
『…………』
『さう言つてはいけないけど……わたしさつきからあなただちの歩いてゐたのを知つてゐたのよ』
『まア……』
 梅尾は聲を立てた。
『あの塔の下のところで、ひよつと見ると、あなたなんでせう。それから餘程聲をかけようかと思つたんだけども、何だか……』
 言ひかけて窕子は半分言葉を引込めて了つた。
『まア、聲をかけて下されば好かつたのに――』
『でも……』
 窕子は笑つた。
『だつて、私、困つて了つたんですの……。聲をかけて下されば好かつた――』
『そんなに申しわけをしなくつても好うございますよ』
『まア』
 しかも窕子は別にそれより深く立入つてその話をきくでもなかつた。むしろ立入つてその話をきくことを恐れた。かれ等は靜かに踵をあとにめぐらした。

         三一
 
 谷に凭つた座光坊には窕子はよくその庭の方から入つて行つた。そこにはかの女は母親とも行けば兄の長能とも行つた。道綱と呉葉と三人して行つたことなどもあつた。
『あの老僧は高徳の方だけあつて、ひとり手に頭がさがるが――あの今のあるじの僧も氣が置けなくつて好い。この深い山の奧で幼いころを過したやうな人だけに、何處か並でないところがござるな』
 こんなことを母親も長能も言つた。呉葉も、『好い法師さんですこと……。それに男前が好い!』かう言つたが、あとの一句は自分でもあまり言ひ過ぎたと言ふやうにソツと舌を出した。
『まア、あきれた……』
『だつて、さうですもの、好い法師さんですもの……』
『だつて舌を出さなくつたつて好いぢやないの?』
『御免なさい!』
 呉葉は自分のはしたなさを悔ゐるやうにして言つた。
『この山で幼い時をすごし、それから横川で行をなすつて、高野にも室生にも行つて、密教の方も十分になすつた方だからねえ……。このお山でもめづらしい法師さんだ――』窕子に取つても、異性がさういふ風に童貞をずつと守つて、一心に佛に奉仕してゐる形が、端麗な姿をしてゐるだけ、一層傷ましいやうな尊いやうな心持を誘ふのだつた。『あれで、あゝいふ風にして一生清く行ひすまして行かれるのかねえ!』時には窕子はこんなことを呉葉に言つたりした。
 ある日は道綱と二人で行つて、小半日もその坊で過した。あるじの方の僧は、却つてそれを名譽にして、何彼と道綱の機嫌を取つて、羊羹を高坏に載せて出したり、葛を溶いた湯を出したりして歡待した。無論それは東三條殿の愛兒であるといふ點もあるのだが、當代で評判な美しい女の歌人を歡迎する意味もあつたのだつた。
『我々もたまには歌にして見たいといふ考も起るので
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