いますとも……それはいづれはさういふことになるだらうとは申してをりましたけれども、さう急なこととは存じて居りませんでした……。ですから姫もおどろかれて、一時は突伏したまゝ、お顏も上げられませぬでした……それはそれは、泣くくらゐのことではございません。姫は何んなに悲しうあらせられたことか……しかし、何と申しても勅でございますゆゑ……』
『まア、何と申したら好いのでございませうね』
『でも、平生やさしい上に雄々しいところもある姫のことでございますから、すぐ御決心あそばしまして、※[#「日+向」、第3水準1−85−25]とたゝぬ中に十分御支度をなすつて御出立なさいました……』
『悲しい女子のさだめ!』
 皆はそこに顏を合はせて泣くのだつた。あたりは次第に薄暮の空氣につゝまれて行つた。窕子と呉葉とは、再び古びた藺笠をかぶつて、泥濘の中をとぼとぼと自分の家の方へと行つた。林に添つた路を通る時には、雨だれがばらばらとその笠の上に落ちた。

         二七

 兼家の方のことも心配にはなつたけれども、物忌が明けない中は、そつちの方へもどつて行くことも出來ないので、幼い道綱を相手に――むしろたゞそれにのみたよるやうにして窕子はわびしい雨の幾日かを過した。
(それでもまだこの身にはこのいとしい道綱がある……)窕子はさうした心持が此頃一層深くなつて來ることを感じた。否、そこに人生が微ながらも覗かれて來るやうな氣がした。かの女はその心持の次第に深められて行くのををりをり飜つて考へて見たりなどした。昔は道綱などは可愛いには可愛いにしても――また誰かが來てそれを奪つて行かうとでもすれば極力それを拒いだには相違ないけれども、しかもその問題が直接にかの女につゞいて來てゐるのではないやうな氣がしてゐた。かの女にはそれ以上にもつともつと大きなことが澤山に澤山にあるやうに思はれた。蹂躙された戀。異性に侮辱せられた戀。青春の徒らに過ぎ去つて行く悲しみ。玩弄品のやうに家にのみ閉ぢこめられていつの間にか老いて行かねばならぬ慘めさ。日毎に退屈に過ぎて行かねばならぬ佗しさ。ことに兼家の愛してゐる他の女に對する嫉妬。火は幾度燃えて、またいく度消されて行つたか知れなかつた。そしてさういふ時には、道綱などのことを考へてゐるひまなどはないくらゐだつた。(何うしてお前のやうな不仕合せなものがこの世に生れて來たのか。このやうな母を持つたお前は何といふ不幸な星のもとに生れ出て來たのか)などとその柔かな頬にその身の頬を押しつけて涙を流したことも一度や二度ではなかつた。しかし、次第にその小さな道綱の存在がかの女に深い意味を感じさせるやうになつて來たのであつた。
 何と言つても道綱だけがその身のものである。それだけは他のものが何うすることも出來ない。切つても切れない。離れようとしても離れられない。次第にそこにかの女は人生を感じて來た。
 窕子は登子が内裏に入つて行くのを見送つて歸つて來て、ひしと道綱を抱き上げて、吃驚して逃げようとするのを無理に押へてきつく抱緊めたり口づけしたりしたことを思ひ起した。『まア、おとなにしてこゝにゐよ……あこだけはこの母のものではないか。何時まで經つても、この身から離れて行かぬのはあこだけぢや……』かう口に出してまで言つて、母の膝から逃れようとする道綱を押へたことを思ひ起した。(まだそれでもこの身にはなぐさめられるものがある……それから思ふと、あの末の君は悲しい)こんなことをつゞけて言つたことを思ひ起した。
『母者、母者……』
 などと言つて、道綱は遠くから走つて來て、その小さな體をかの女に投げつけるやうにしたりなどした。
『まア、この子は! 何處に行つてゐたのか。この足は、この手は? 呉葉や、拭くものを持つて來や……』
 さうした窕子の聲がともすればその一室の中からきこえて來た。
 それに、この頃は窕子はわるく咳などをした。あの時、雨の中に立つてゐたりしてそのための風邪でも引いたのだらうなどと初めは言つてゐたが、何うも思ふやうに治らぬので、忌みの中にあまり出歩いたりしたので物の怪でもついたのではあるまいかといふ氣がして、いつもの僧を呼んで加持などをして貰つたりしたが、何うも本當には治らないので、その僧のすゝむるまゝに山寺にでも行つて見たら何うかといふことになつた。で、晴れ間を見て、京から北の方へ當る山合の寺へと窕子は出かけて行つた。

         二八

 兄の長能も一緒に出かけた。
 それは京からずつと北山に入つて行くやうなところだつた。鞍馬とは谷を二つも三つも隔てゝゐて、入つて行く路も、標野あたりを眞直に山の翠微に向つて進んで行くやうなところだつた。祈祷などで驗のある名高い僧がかの唐の地からやつて來て、その寺に留つてゐるので、それで評判になつて皆ながそこに出かけて行くのだつた。
 出て來る前、そのことを兼家の方に言つてやると、返事も呉れないので、いくらか氣になつてまた追かけて文箱を持たせてやつた。返事は來るには來たが、そこにはやさしいことも書いてなく、たゞ行つて來ることについての承認を與へてよこしたばかりだつた。かれの方にもいろいろなことがあるらしく、一族のあらそひにも氣を腐らせて、内裏にも出かけて行かないやうなことが多いらしいやうなことを使のものは匂はせた。窕子はそれをなぐさめたいにも、その周圍にはいろいろな女だちがゐて、素直にそれが實行出來ないことを悲しんだ。何でも此頃では、また南の坊の方へ行き出して、夜は殿の車がおそくまでその角に置かれてあるなどといふ噂を耳にした。
 たゞ窕子に取つて喜ばしいことは、武隈の府から多賀の府へ轉任になつて行つて、今年で八年になる父親が來年は久々で京にもどつて來ることが出來るといふ報知を受取つたことだつた。『まア、父さんがもどつてゐらつしやる!』かう言つて家の人たちは皆な喜びの聲を擧げた。中でも長能の妻のかをるは、父親が任所に赴いた後に母だの伯父だのが相談して貰つたものなので、まだ見ぬ父親に對して一種のあくがれを持つてゐるので、一層なつかしさうに見えた。
『父さんがもどつて來ると、また家が賑かになる……。それにしても、父さんは何んなになられたことやら。今年歸るか、來年もどるか。一刻も早うもどらして貰ひたい。かういくら殿に頼んでも、さういふことはこの身にも自由にならぬとばかりで、何うにもならぢやつたが、やつともどつて來らるゝか……。死なぬ中に逢はるゝがうれしい……』その消息を手にした夜には、母親はかう言つておちおち眠ることすら出來ないくらゐに喜んだ。
 窕子にしても里の家が急に明るくなつたやうな氣がした。
 標野から山に向つて入つて行く路は暑かつた。一方の車には窕子と道綱と呉葉、一方の車には長能とその妻のかをると母親とが乘つて、カタカタとわるい路を搖られながら行つた。ところどころにある大きな樗の木蔭には、この暑い原を越して行く人だちの牛車や絲毛車が澤山に休憩してゐるのを眼にした。
 原を越して、これから山にかゝらうとするところには、冷たい清水がちよろちよろとわき出してゐて、そこに近所の百姓の嚊がむしろなどを持ち出して、山で採れた木いちごや、しどめなどをそこに竝べてゐた。皆なそこで車を下りて休むことにした。
 かをるの方が窕子よりは年が二つ下なのだけれども、窕子はそれを『姉者、姉者』と呼んでゐた。
『姉者は肥えてゐるで、何うしても他よりも暑いぢやらうな?』
 こんなことを窕子が言ふと、
『暑いにも、暑いにも……』かう輕くおどけた風にかをるは言つて、その細い筧からちよろちよろと落ちる清水を茶椀に受けて、それを道綱にも飮ませ自分にも飮んだ。
『つめたい?』
 窕子は此方から訊いた。
『口もきるゝやう――』
 窕子も立つてその筧の落ちる傍に行つた。
 急いであとからついて行つた呉葉が茶椀に滿たした水を窕子に出した。
『おゝこれはつめたい!』
 皆ながかはるがはる口に當てて飮んだ。暑い原を通つて來た苦しさがそれでよほど除れたやうにお互にのんびりした氣特になつた。それにそこは已にいくらか高くなつてゐた。京の町がそれと手に取るやうに見えた。
『これでやつと凉しうなつた!』母親もいつもと違つて、父親の歸京の消息を得た喜びがあるので、いかにも心が伸々としたやうに言つた。
 晝飯にはまだ少し早いけれども、これから先きには水のあるところはあつても休む設備の出來てゐるところはないと言ふので、持つて來た行厨をそのまゝそこで開くことにした。重ねた上の方の箱には、煮つけたものなどが入れられてあつて、下には今朝早くから起きて拵へた饅頭などが一杯に入れられてあつた。
『ひとついかゞ……』
 かをるはそれを呉葉にまで持つて行つて取らせた。
『うまく出來ましたね、姉者……』
 窕子は言つた。
『うまいどころではありませんでせうけども……。それでも、お中が減つては爲方がないから――』
『上手に出來てゐますよ』
 窕子は饅頭を一つ手に取つてそれを道綱にやつたりした。
 窕子にはかうした郊外の團欒がたまらなく樂しいやうな氣がした。これを平生の京の生活と比べたなら? 人が人と爭ひ、心が心と爭ひ、片時もその苦しさをやすめることが出來ないやうな生活と比べたなら? あのやうな無理な壓制が行はるゝやうな生活と比べたなら? またその身が不斷にやつてゐるやうな愼恚と嫉妬の生活と比べたなら? 大勢の妃を竝べて、美しい裳を着せて、それに酒の相手をさせたところでそれが何んだらう? また坊に行つて夜もすがら騷いであそび※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つたとて、それが何だらう? やつぱりこの人生にもかういふ靜かな樂しさがあるからそれで生きてゐられるのではないか。こんなことを考へながら、窕子はじつとして立つてゐた。
 兄の長能は窕子の多情多恨な性質を知つてゐるので、傍に寄つて來て、
『何うかした?』
『いゝえ……』
『また、何か考へ出したのかと思つて……』
『いゝえ、たゞ、かうしてゐれば好いなアと思つたんです!……。かういふ生活もあるのに、何うして人間はあゝいふ爭ひの生活をつゞけてゐるのかと思つたんです!……。かういふ山の中に住んでゐる人だちは、さばさばとして何んなに好いだらうと思つたんですの!』
『だつて爲方がない……。さういふ生活があるんだから――』
『だから、それを亡くさうといふんぢやないの……。亡くしたいたつて、それは私の力では出來ないことですからねえ。たゞ、かういふ樂しい、自然のまゝの生活もあるのだと思つただけなの……』
 兄の長能は餘りに深く入りすぎて、また氣持でもわるくさせてはと思つてそのまゝ口を噤んで了つた。
『ぢやそろそろ行かうかね……。もうこれからは山で凉しいから』
『さうしませう』
 かをると呉葉とはそこらにあるものを片附けにかゝつた。
 やがて皆なはてんでに自分の車に乘つて、またガタガタと山深く輾らせて行くのだつた。

         二九

『だつて、お前、そんなことを考へたつて爲方がない……』
 母親はつとめて窕子をなだめるやうにして言つた。
『母者の言ふことはそれはよくわかるのよ。何うせ、人間はあきらめ――自分のことでさへ自分で自由にならないのに、何うして他のことまで自分の思ふやうにすることが出來よう。それはよくわかつてゐる。しかし、さうだからと言つて、それを放つたらかして置くといふことは出來るでせうか。何うかしてそれをよくしたいと思ふから、それで苦しむのではないでせうか?』
『苦しむからいけないのぢや。苦しむことはない――』
『でも苦しまずにはゐられないのですもの……。あゝして道綱があそんでゐるのを見ても、すぐ苦しくなつて來るんですもの……』
『それがわるい癖ぢや……。それをやめねば、そちの病氣は治らぬと阿闍梨も言うたぢやないか? 何も思はぬ。何んなこともつらいとは思はぬ。眼の前を通り過ぎる雲ぢやと思うてゐる。でなければ、魔が一しきりついたのぢやと思うて知らぬ顏をしてをる……さうでなければ治らぬと言うたぢやないか
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