て居るのです……。何うせ、宮のあとについて行くことすら出來ない身――』かう言ひかけて登子は急にたまらなく悲しくなつて來たといふやうに、いつもなら引被くのが慣ひであるのに、顏を上に向けて、ひとり手に涙が兩方の眼から行をなして落ちて來るのに任せた。
『何うせ……何うせ……この身は生きた屍も同じ身……窕子さん、つか穴の中に入つて行くのも、この身にふさはしい……』言葉が涙にさゝえられて滿足には出て來なかつた。
 その悲しさが窕子にもつくづく思ひ當つた。自分の時にはその身だけがさうした悲しい運命に落ちたと思つたのであつたが、今では、それがすべての女子の悲しみであるといふことがわかつた。

         二五

 使のものが文箱を持つて來た。それを明けて見た窕子は、すぐ筆を取つて、返事を書いてそれをその文箱の中に入れた。
『これをわたして下さい』
 持つて行つて戻つて來た呉葉に、
『お前も一緒に行つてお呉れ……。いよいよおわかれになるのかも知れないから……』
『そんな御樣子でございますか』
『いゝえ、別に手紙には、さう詳しいことも書いてなかつたけれども、もう一度ちよつとなりと、お目にかゝりたいなどと書いてあつたから……』
『それでは、いよいよその時がまゐりましたのでございませうかねえ!』呉葉にしても胸がとゞろかずにはゐられないのであつた。
『兎に角支度をしてお呉れ!』
 やつぱり雨が頻りに降つてゐた。今年は何うして雨が降りつゞくのだらう。普通ならば、もはや五月も終りに近く、雲の縫ひ目もところどころ綻びそめ、山の裾なども見えそめ、時に由つては明るい月影が野にも山にもさしわたつて、青空が人の顏にも衣にも、車にも、または騎馬の侍にも、調度掛を携へた大宮人にも、ところどころ崩れた築土にも快よく映るのであるのに、またしても雨、雨、雨。容易に晴れようとはしないのであつた。
 窕子だちは別に變つたことを見出さなかつた。此間などとは違つて登子は靜かに落附いて話した。
 始めの中は、これはこつちの考へ方が間違つてゐたので、たゞ無聊のまゝにかうして呼ばれたのに過ぎないのではないかといふ風にすら思はれた。
 しかしその靜かさは、嵐の中にふくまれてある一つの靜けさであるといふことがやがてわかつて來た。窕子は胸の轟くのを感じた。
『でもね、御身が度々たづねて下すつたので、何んなに慰められて暮したかわからないのです……本當に、何うお禮を申したら好いか……?』
 落ちついた登子の言葉には、別れを潔くしようとするやうな努力がはつきりと讀まれた。
『それでは……』
 窕子はじつと登子の顏を見つめるやうにして言つた。
『いつまでも此處にはゐられないやうなわけで……』
『では、内裏に……』
『え……』
 登子はたゞ點頭いた。それだけでもかなりの努力であるらしかつた。
『…………』
『まア!』とか『それは……』とか窕子は言ひたかつたのだけれども、言葉は口から出て來なかつた。
 暫く經つた。
『それで、こゝをお出ましになるのは、いつでございますか?』
 窕子はやつと訊いた。
『それが、もう慌たゞしいので……。出來ることなら、もう一夜くらゐ、御身とわかれを惜しみたいなどと思つたのですけれども、それも出來ない……』もはや内裏から迎への車さへ來れば、いつでも出かけて行かなければならないと言ふのであつた。
『まア、そんなに早く……』
『でも、何うせ、行かなければならないものなら、いつそ早く行つて了ふ方が……?』
『…………?』
『これはほんにつまらぬものだけれども、このわびずまひにあなたがよく來て下さつたといふ記念に……』かう言つて、登子は自分が平生用ゐてゐた蒔繪の硯箱をそこに持ち出した。
『そのやうなこと……』
 と窕子が辭退するのを押して、
『蒔繪はこれでも好いのだし、螺鈿もいくらか入つてるのだから……。いいえ、これは言はずにさし上げるつもりだつたけれども……』急に登子は顏を低頭かせて、『これは、……これは……宮が特にこの身のためにつくられて賜はつたものなのだが、窕子さん、これはあなたが持つて行つて下さい……。よくこの身の心をよく知つてゐて下さるあなたが――』あとはもう言へなかつた。
『…………』
 窕子は眼を裳の下袖で拭いた。
『あまり氣持がよくないかも知れないけれども……』
『そんなことがございますものか……。』窕子は慌てゝ打消して、『それでは頂戴して、いつまでも、いつまでも、このかくれ家の記念として思ひ出すやうに致します……』
 と言つて、そこに取出された蒔繪の硯箱を押戴くやうにした。すぐつゞけて、
『然し、あまりいろいろなことを思召さないやうに……』
『もう大丈夫……』悲しい氣分がいつか通り過ぎて行つたといふやうに、登子はいくらか晴れやかに、『いくら考へたつて、しやうがないから……何うせ、なるやうにしかならないのだから……』
『さうですとも………』
『どうせ、女子はかうなるものだから……』
 窕子は言ひたいことが山ほどあるけれども、言へばすぐ涙が出て來さうになるので――つとめてそれを抑へて別れをつげて來ることにした。
 何うにもならないものに對する悲哀――何と言つてもそれは悲しいものであらねばならなかつた。死でなければ別離――そのわかれのつらさがひしと窕子の體に逼つて來た。
 登子も多くを言はなかつた。窕子が立つて來ると、かの女もその妻戸の外まで送つて出て來た。雨は荒れ果てた池の上に殼紋をつくつて降り頻つてゐた。
『それでは……』
窕子は暇を告げた。
『健かで……』
『おん身も……』
 いつまで惜しんでもとても惜しみきれない別れだ! と思つて、窕子は心を強くして向うに行つた。しかも何うしても振返らずにはゐられなくなつて、もう一度振返つた時には、白い顏を大理石像か何ぞのやうにやゝ薄暗い空氣の中に見せて、登子がじつとして此方を見送つて立つてゐるのを眼にした。

         二六

 呉葉が慌たゞしく入つて來た。それに由ると、内裏からの迎へが今來たらしいといふのであつた。つい今そこから歸つて來たばかりなのに……。まだ一※[#「日+向」、第3水準1−85−25]くらゐしか經つてゐないのに……。窕子は慌てゝ古い藺笠をかぶつて呉葉のあとについて行つた。
 雨の降りしきる中に、果たしてそこに内裏から來たらしい雨つゝみをした網代車が二輛――白い黒い斑牛も、笠をかぶつて雨具をしてゐる牛飼の男子もすべて深い泥塗にまみれて、その車臺すらも半ばは泥濘に汚されてゐるのを眼にした。一つの車は勅を受けて迎へに來た代官が乘つて來たらしかつた。
 これでも雨さへ降らなかつたならば、いくら秘密にしておいても、何處からかそれをきゝつけて、あたりの人達がそれを見に少しはやつて來たであらうけれども、いかにしても路が泥濘になつてゐる上に、上からも片時も止む時なく雨が降りしきつてゐるので、そこにはその二輛の車が置かれてあるだけで、誰も人の姿は見えなかつた。窕子にはそれがさびしかつた。
 かれ等は雨の中に立つてゐるわけにも行かず、さうかと言つてまたそこに近く寄つて行くのも出來ないので、對屋の階段からは十間ほど離れてゐる庇の下のところに身を寄せて、降しきる雨を纔かに凌ぎながら、じつとそつちの方に眼を注いでゐるのだつた。
 呉葉はわくわくしながら、
『まア、ねえ……』
『何うしたの?』
『だつて、この降りに……、御氣の毒ですわねえ……』
 で、かれ等は成るたけ高い庇から落ちて來る雨滴に裳をぬらさぬやうに、廊下の下のところに身を寄せて、奧から皆なの出て來るのを待つた。
 窕子の頭には對屋の中の光景――流石に登子も驚いてゐるであらうと思はれるさまや、勅ゆえに拒むことが出來ずに裳を着改へたりしてゐるさまなどがはつきりと映つて見えた。(それにしても誰が勅使になつて來たのだらう? 兼家でないのはわかつてゐるが、誰か身内のものが一人は來てゐるであらうと思ふが、誰だらう? 内裏の侍女と誰が來たらう)しかもこんなことを頭に描いてゐるのもさう大して長い間ではなかつた。ふと窕子は向うの廊下に五六人の人だちの氣勢のするのを耳にしたと思ふと、その階段のところに、兼家の腹ちがひの弟で、式部の副官をしてゐる政兼が勅使の衣冠をつけて、侍者二人に扈從されながら徐かにその姿をあらはして來るのを目にした。はつと心を躍らしてそれを見てゐると、内裏の藤壺に長い間つとめてゐるので名を知られてゐる桂といふ老女が、喪服でもあるかのやうに黒味がゝつた裳をつけて、際立たしく眞白な端麓な顏をいくらか下向加減にしてゐる登子の手を取らぬばかりにして先に立つて階段の方へと歩いて來るのが見えた。
 窕子も呉葉も唾の口にこもるやうな氣持で、じつとして一心に眼をそれに据ゑた。先に下りた衣冠に笏を持つた政兼が廂の下に立つて上を仰いだ時には、その老侍女が一足下りて、そのあとから登子が續くのであつた。徐かに徐かにかれ等は階段を下りた。
 登子はそこに來て初めてその眼を擧げて、縱縞を成して盛に降つてゐる雨とついその近くまで寄せて來てある二輛の網代車とを眺めた。一層白いその顏があたりに際立つて見られた。
 こつちを見て下されば好い。かうしてお見迭りに出てゐるこの身を見て下されば好い……。かう窕子が思つた時にその登子の眼が動いて、たしかにそれが此方を見た。否、見たばかりではなかつた。それと知ると、一種言ふに言はれない感謝の表情をその顏にあらはして、瞬きもせずにじつと窕子の方にその視線を注いだ。
 しかしこの場合、何方からも聲をかけたり別離を惜んだりすることは出來なかつた。たゞじつとさうして雨の夕暮の空氣の中に相對して立つてゐるだけだつた。成るべくその距離を近くさせるべく命令されて牛飼どもは頻りに鞭を鳴らしたり、綱を引いたりして努力したけれども、あたりは全く地が膿んで、ともすれば半分以上車の輪がはまり込みさうになるので、やむなくその人達はそこまで歩いて行かなければならなくなつた。
 形ばかりに藁だの俵だの板だのが持つて來て敷かれた。しかも完全な雨具とても用意してないので、衣冠束帶の勅使と喪服を着たやうな登子とが長柄の傘を後からさしかけられただけで、あとは皆なびしよぬれなるのを何うすることも出來なかつた。勅使の副使をしてゐる同じく束帶の大官は、やむなく長い間その降りしきる雨の中に立ちつくしてゐた。
 しかしさうした混雜もたゞ一時あたりに際立つて見えただけで――登子が老侍女に扶けられてそのほつそりとした姿を前の方にある車の内に入れて了ひ、勅使と副使とがそれをはつきりと見ただけで後の車に乘つて了ふと、あたりは車の齒の泥濘の中に深く喰ひ込んだのを牛飼どもが押したり動かしたりする光景だけになつて了つて、それも崩れた中門の方へ近づくにつれて、段々その動いて行き方が早くなつて、たうとうあとにはその大きな轍の縱横につけられた上にザンザン降り頻る雨の佗しく暮れて行くのを見るばかりになつた。
 窕子は何とも言はれないさびしい悲しい心持で、身動きもせずに暫しそこに立つてゐたが、いつまでもさうしてゐられないので、そのまゝ階段の方へと歩いて來た。
『まア、何て悲しいことだらうね』
 そこに行くと、窕子はわれを忘れたやうにべたりとその階段のところに腰を下して了つた。窕子は兩手をこめかみのところに當てゝじつと深く考へ込んだ。暫く經つた。
『でも、此方を御覽になつたね……』
『えゝ……』
 呉葉はかう言つて、『隨分長いこと、此方を見ていらつしやいました……』
『せめてものなぐさめだね……』暫らくだまつて、『この人の世には、かういふ悲しいこともあるのだね!』
『本當でございますね』
 話聲をきゝつけてそこに常葉が下りて來た。
『まア、何方かと存じたら、窕子さまでございましたか……』
『常葉どの……』
 またたまらなく悲しくなつたといふやうにして窕子は顏に手を當てた。
 呉葉は常葉に訊いた。
『今日、勅使が來るといふことがわかつて居りましたの?』
『いゝえ』
『では、だしぬけに……?』
『え、え、だしぬけでござ
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