の音が靜かにそこに寄つて來るのであつた。
 登子の顏のわるく青白く、眼がじつと一ところを凝視してゐるのを窕子は見た。おそらく自分の顏もそれと同じく蒼ざめてゐるのだらうと思つた。すさまじく風雨が戸外に荒れて居るのがはつきりとわかりながら、その中に沓の音の近づいて來るやうな音は猶ほきこえた。
 急に登子は恐ろしい物の怪にでも襲はれたやうに裳の袖を頭から引被いて了つた。近くにある方の結び燈臺は風もありはしないと思はれるのに、ふつと消えた。窕子も思はず、あ! と聲を立てた。
 同じやうにしてかの女も裳を被いて了つた。
 それから何のくらゐ經つたか、半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]ほども經つたか、それとももつと長く經つたか、二人が氣がついた時には、呉葉と常葉とがこれもやつぱり何物にか襲はれでもしたやうにしてそこに來ておどおどしながら坐つてゐるのを見た。それでも外のざわつきはもはや靜かになつたらしく、たゞ風雨の氣勢だけがそれと遠くきこえるのだつた。
『何うしやつた?』
 登子は始めて我にかへつたといふやうにして常葉に訊いた。
 かれ等の言ふところに由ると、何か奧で人の叫ぶやうな氣勢がしたので、何事かと思つて常葉を先きに、そのあとから呉葉がつゞいて驅けるやうにして入つて來ると、結び燈臺が消えてゐて、登子と窕子と引被いて打伏して了つてゐるのに度膽をぬかれて、かれ等もそのまゝそこに打伏してしまつたといふのであつた。『こわや、こわや……』常葉の顏はまだ蒼青だつた。
 あとからついて來た呉葉にはそれは見えなかつたが、常葉には白いふわふわした焔のやうなもの――よく見ればそれは衣冠であつたかも知れなかつたやうなものがそこにひろがつてゐたのが見えたといふのだつた。それを見て常葉はすぐ打伏したといふのだつた。呉葉は呉葉で、二人のみならず常葉までがさうして引被いて了つたので、かの女も急に恐ろしくなつてそのまゝ隅のところに身を寄せたといふのだつた。
『たしかにそれに違ひない……宮が來られたに……』
 登子は確信したやうに言つた。
『こわや――』
 常葉はブルブル身を顫はすやうにした。たしかにあれが、あの白いものが宮だつたと思ふと、後から水でもかけられるやうな氣がするのだつた。『あまり泣いたものだから……』それで宮がやつて來られたのだ。登子は次第に元の心の状態になつて行つた。
 窕子にしても呉葉にしても、この物の怪のすだく風雨の闇の夜を、いくら近くともとても歸つて行くことは出來ないといふので。――また登子の方にしても、さびしくてとても常葉と二人きりでは居られないからと言ふので、僕を使にやつてその旨ことはらせて、二人は一夜をそこに過すことにした。それから窕子はまた一しきり話に耽つて、太秦の蜂岡寺の丑の刻の鐘が風雨の中にきこえる頃まで起きてゐたが、たうとうそこに蚊帳を低く吊つて夜のものを竝べて眠つた。

         二三

 雨は猶ほ幾日も止まなかつた。芦や藺は高く繁り、それに雜つて名も知れない黄い花が咲いた。杜若の厚い緑葉には、白いまたは紫の花が咲き添つた。夜は螢が人の魂か何かのやうに一つ二つ青白いひかりをあたりに流して行つた。
 此方の裏門のところにはよく窕子の姿が見えた。小降になつた時を選んでは、かの女はいつもそつと隣の廢宅へ行くのだつた。かくれ家では多くは歌などを詠んだりして世離れて暮した。幸ひに誰もかれ等の靜かな生活の邪魔をしなかつた。兼家も物忌で館にばかり引込んでゐるらしかつた。たまには歌を入れた文箱などが屆けられては來るけれども、たゞ雨のわびしさが歌はれてあるくらゐなもので、別にかの女に逢ひたいとも思つてゐなかつた。道綱はもはや七つになつたので、母のあとを追はず、おとなしく廊下で竹馬などをして遊んで暮した。
 少しくらゐ鳴らしても差支あるまいといふので、時には爪音を低くして登子と二人で箏の琴を彈いたりなどした。欝陶しい空合が絶えず眺められた。蝸牛が階段から廊下へとのぼつて來る丸い欄干に二つも三つも貼されてあつたりした。
 ある時登子は言つた。
『今はかうして世離れて、誰にも礙げられずに暮してゐることが出來るけれど……これもいつまでかうしてゐられることやら――』
『ほんとに――』
 窕子はかう言つて登子の方を見て、『何か、そんなことでも――』
『兎に角いつまでも此處にかうしてゐられないのは、わかつてゐるのよ。それが、この身の運命ですもの』
『…………』
『今日もそんなことをつくづく考へた……』
 窕子は何とも言へないのだつた。他から見たら、むしろ羨むべきことで、何うしてさういふ風に悲觀されるのだらうと思はれるくらゐなのだが、しかもその心持は窕子にはそれとはつきりわかるのだつた。そこに女の悲しみと苦しみとがあつた。かの女もさうした苦しみを經て來たことをくり返した。『何うしてかう女子といふものは虐げられてゐなければならないのだらう。女子は生れた時からさういふ風に運命づけられてゐるのか?』その話はいつもそこへと落ちて行くのだつた。
 あれ果てた池には蛙が頻りに聲を立てゝ鳴いた。それはよく雨に伴つてきかれた。蓮や麥の葉に水がたまつて、それが珠でも轉ばしてゐるやうに見えることもあつた。ある夜は頻りに時鳥が闇を破つて鳴いて行つた。大比叡でも雨の晴れる護摩を此頃毎日あげてゐるといふ。『山でも少し見えて呉れると氣が晴れるのですけれどもね』廊下のところで常葉がこんなことを鼻の大きい下衆に言つてゐるのも窕子だちには佗しかつた。それでも何うかすると、薄ぼんやりと夜中に月が出て、草に亂れた廢宅がさびしく微かに照されてゐたりなどした。

         二四

 登子と窕子との間にはをりをりこんな話が交換されるのだつた。
『何うしてかう女子は虐げられなければならないのでせう?』
『これと申すのも、女子が内にのみかくれて居るからではないでせうか。もつと世の中に出て行かなければならないのではござりますまいか。……それは慣習と申せば、それまででございますけれども……その慣習にばかり從つてゐるからいけないのではございますまいか……』
『それはほんにさう思ふけれど』
 登子は[#「登子は」は底本では「登子ほ」]深く考へるやうにして、『でも、それは運命のやうなものぢやほどに……。何うにもならないものぢやほどに。難有い彌勒の世といふのにでもならなければ、とても望まれないことではないか?』
『それはたしかにさうでございますけれども……さうかと申して、その彌勒の世と申すやうな世の中は、いつ參るのでございませう? 放つて置いても、ひとり手に參るのでござりませうか……?』
『さういふことは、無明の身にはわかりませぬが……』
『しかし、やはりそれは私どもがしなければさういふ風になつて行かないのではござりますまいか。私どもが築き上けることが必要で、さういふことをしなければ、いつになつたとてさういふ世の中はやつて來ないと思ふのですが……さういふ風に、お考へにはなりませぬか?』
 急に登子は悲しさうに、
『御身は宮と同じやうなことを言ひやる!』
『宮と申すは?』
『卿の宮……』
『まア、さやうでございますか。宮はそのやうなことを申して居られましたか。そんなことはちつとも存じませぬ。初耳でござります……』
『宮はよくさういふことを申して、憤られて御出でであつた。今の世の中に、さういふことを考へるものはない。快樂を追うものでなければ、名を求めるもの、權力を求めるもの、さういふものばかりぢや。そしてそれは何のためかといへば、皆な自分の我儘を振舞うためにさうしてゐるのぢや。ひとりとして人間のため、彌勒の世に進むために力を盡してゐるものなどはない……。それを思ふと、歎かはしいと常に申して居られた!』その故宮に對する考へが急に胸にあつまつて來たらしく、登子は裳の袖をおもてに當てた。
 二人ともだまつて了つた。まゝにならぬ苦しみが深くかれ等の胸を塞ぐやうにした。
『本當に、さういふ新しい考へをお持ちになつたのでございますか?』
 暫くしてから窕子は訊いた。
『本當もうそもない……。この身が常にきかされたことぢやに……。この身にしても、宮から何のやうにいろいろなことを教へられたことか。佛のことなどでも、深う深う知つて居られた……。今の世の中では、大比叡の坊主どもが快樂のみを説いて、何うせ思ふまゝにならぬ世ぢや。これがさだめぢやと言うて、苦しみをそれで蔽うてゐるが、それは佛の本當の道ではない……とよう言うてをられた。佛はわれぢや。この身ぢや。そなたぢや。とよく言うてをられました……』
『ほんに、そのやうに新しい方でございましたか。それなら、一度でも御目にかゝつて置きたうございました。この身はまたこの身で、今の世の中には、そのやうなことを考へて居らるゝ方はない。詩歌管絃……蹴鞠……酒……女子……さういふものより他心にかけて居るものはないと思うてゐましたのに……。』
『宮はこの世には事なくて生きてゐらるゝ方ではなかつた……』
 登子はいろいろなことを思ひあつめたといふやうにして言つた。登子の眼には、網代車を夜暗に細い巷に引入れる人だちだの、大内裏の局の女房に人知れず通つてる人だの、夜もすがら詩歌管絃に遊蕩のかぎりをつくしてゐる人だちだのが――またはこつそりと姫を圍うてゐる坊主や、宮女に花のやうに取卷かれてゐる人だちなどが、はつきりとそこに映つて見えるのだつた。ことに、何も知らない女子が、長い間の慣習のためにそれをあたり前と考へてゐるばかりではなく、女子といふものはそれで好いもの、いかやうに男にもてあそびものにされても好いもの、むしろそれを利用して、その身も快樂と贅澤とに耽るべきものと思つてゐる今の世の中のさまがそこに一つの繪になつて展けられて來るのだつた。
『情ないことぢやのう……』
『ほんに――』
 二人はかう深く歎かずにはゐられなかつた。
 しかしかうした二人にしても、さういふことばかりを問題にしてはゐられないのだつた。やつぱりその生れ出でて來た今の世の中に雜り合つて、悲しみには泣き、喜びには笑ひ、爭ひには爭はなければならないのだつた。
『それは、私のやうなものがいくら申したとて、そんなことは小さなこと――何うにもならないことで、一すぢの烟を立てるにすらあたひしないものですけども……それでも、この心持は捨てずに持つてゐたいと思つてゐるのでございます……』などと靜かな調子で窕子は言つた。
 ある時は登子はまたこんなことを言つた。
『でも、さう言ふと、あなたなどには効ないものに思はれるかも知れねど、この身などの運命は、もはやちやんときまつてゐるのだから……。慨いたとて、悲しんだとて、何うにもならないのだから………。』
『……………』
『この世のためなどといふことは、口ではいかやうにも言へるけれども、かよはい女子の身では何うにもならないことなのだから……。やはりこの身とてはかない醉生夢死……』
『……………』
『やはり、運命に從うといふことより他に、女子の行く道があらうとは思はれぬ……』
 その言葉のかげには、大内裏からの強い壓迫がそれとなくきかれるのだつた。窕子は何う慰めて好いかわからなかつた。
『それは世間では羨しいと思うたとて、それが何? え、窕子さん、あなたはさうは思はない。内裏に入つて、あの藤壺の一室に大勢に侍かれるといふことは、それはこの身の得がたい出世として、また一方では小一條どのや向う側にゐる人たちに對する兄達の立場として喜ばれることかも知れないけども、この身としては何が喜び? え、窕子さん。私にとつてはこの身を葬るつか穴ではありませんか。一度入つたら、もう再び出て來ることの出來ない墓場と同じではありませんか……』
『…………』
 何も言ひ得ない窕子の眼からはひとり手に涙が流れて來た。
『でも、ね……。窕子さん、泣かずにきいて下さい。あなたの他には、誰ひとりかうした私の心をきいて呉れるものなどはないのだから……。窕子さん、この身はもう心はきめてをるのです……。さうなる身とあきらめ
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