道綱の母
田山花袋
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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(例)ゆる/\と靜かに
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一
呉葉は瓜の出來る川ぞひの狛の里から、十の時に出て來て、それからずつと長く兵衞佐の家に仕へた。そこには娘達が多かつたが、中でも三番目の窕子とは仲が好くつて、主從の區別はあつても、しん身に劣らぬほどの心を互ひに取りかはした。後には窕子のためにつけられた侍女のやうになつて了つた。
かの女にはいろいろなことが思ひ出される。まだ來たばかりで、朝に夕に故郷の母のことを思つて打しをれてゐると、そこにその時分丁度十三四で、年のわりに聰明で歌を詠むことが上手で、多い同胞の中ではことに器量の好い窕子がそつと寄つて來て、『お前、泣いてゐるの……。何うしたのさ……。母者がこひしいの……。もっともだとは思ふけども、あまり考へると體をわるくするからね、あまり考へない方が好いよ。それとも誰かいぢめたか何うかしの! あの仲姉さんが意地わるか何かをしたんぢやない?』その時呉葉は俄かに頭を振つたことを今でもはつきりと覺えてゐる。それから窕子のやさしい心持がかの女の體中に染みわたつて、たよる人はこの君ばかりといふ風に益々しん身になつて行つたことを覺えてゐる。
窕子と呉葉とはその時分よくこんな話をした。
『お前の國に行って見たいね……。大きな川があるんだッてね』
『え、え、それは大きな河……鴨川のようなあんな小さな川ぢやない。もつと大きい、大きい、大きい帆がいくつも通る……。舵の音が夜中でもきこえる。それはそれは大きな河……。それに、河原の畠には瓜が澤山出來てゐるんですから……』
『もっと大きくなつたら、二人きりで行かうね。二人きりで……。仲姉さんとも誰とも一緒でなしに……。そしてお前の母者や姉妹とも逢はうね。そしてその次手に、昔の奈良の都にも行つて見ようではないか!』
『さういふことが出來たら、それこそ何んなに嬉しいことか……』
呉葉はさうした話の出る度毎にいつも雲の白く山の青い故郷のことを頭に浮べた。
それは西洞院の二條を少し下つたところにある邸――兵衞佐ぐらゐの人の住んでゐる家であるから、さう大してひろくも大きくもなかつたけれども、それでも築土が長く取廻してあつて、栗や柿の樹などがその上から見えて、秋は赤い木の實が葉の落ちたあとの枝に鈴生に着いてゐるのを路行く人はよく眺めて通つて行つた。それからちよつと出ると、そこはもう西洞院の大通りで、馬車、さき追ふ人の聲に雜つて下司どもの罵り騷ぐ聲や、行縢を着けた男や、調度掛をつれた騎馬の侍や、つぼ裝束をした女達の通つて行くのがそれと手に取るやうに展けられて見えた。呉葉は幼いころ、ものの使ひに行つた歸りなどに、一の殿のすさまじく仰々しい行列に逢つて、何うすることも出來ずに、片側の塀にぴたりとその小さき身を寄せてある期間じつとしてゐたりしたことを今でもをりをり思ひ起した。そしてそれを眞直に北に行くと、大宮の築土に突當つて、そこには大きな門があつて、直垂姿や騎馬姿の絶えず出入するのを怖いものでも見るやうな心持でじつと眺めたことを思ひ起した。
兵衞佐の邸はさう綺麗に掃除されてはゐなかつたけれども、それでもかなりに廣く、竹藪があつたり、池があつたり、その池には家鴨が放たれてあつたり、厨を出たところには、溝の中に夏は杜若が色濃く鮮かに咲いてゐたりなどしたのをはつきりと覺えてゐる。……それにしてもかの女が十三から十五ぐらゐまでの間に、窕子の美しくなつたことは! 指は白魚を竝べたやうに、肌は白く透き徹るばかりに、家の内から滅多にその姿をあらはしたことはなかつたのであるけれども、それでもその美しさはいつか世間に知られて、公達だちの間には喧しく品定めされてゐるといふことが常に呉葉の耳に入つた。
呉葉は主從ではあつたけれども、しん身の同胞か何かのやうに思つてゐる窕子がさういふ風に日増に美しくなつて行くのを不思議な心持で眺めた。ある時には今までとは全く違つた窕子になつて了つたやうな氣がして、靜かに筆を手に几帳のかげに坐つてゐるのを近寄り難くじつと見守つてゐたことなどもあつた。『お前何してるのさ……そんなところにさつきからぼんやり立つて!』その時だしぬけにかう言はれて、呉葉は何と言つて好いか言葉がなくて困つた。さうかと言つて、『あんまりお美しいから、私、見てゐたのです』とも言へなかつた。もはやその頃には、窕子の二人の姉は皆なそれぞれ然るべきところへと嫁いで行つてゐた。意地のわるい仲の姉は越の國の司のもとに嫁して、かへる山を經て遠く有磯海の方へとつれられて行つてゐた。
二
窕子は半ば笑を含むやうに言つた。
『呉葉までそんなことを言ふの?』
『でも、さう言はずにはゐられませんもの……。行く末は一の人になるべき人がこの御歌! お父さまだつて、お母さまだつて、お兄さまだつて、お喜びにならないものは一人だつてないのですもの……誰だつて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]らないものはないのですもの……』
『…………』
『お返しあそばせ――』
『…………』
窕子は几帳の蔭に身を寄せて、じつとしたまゝ默つてゐた。何とも言へず美しく神々しく見えた。いつもの窕子――その身が長い間一緒に住んで來た窕子とは何うしても思へない姿がそこにあつた。一ところをじつと見詰めたまゝ目じろぎもせずに窕子は深く考へ込んでゐた。
『本當に……』
『もう少し待つて……』
『でも使のものが待つてをりまするほどに――』
『かへしなどはとても――』
『出來ぬとおつしやいますのですか。行末は一の人となるべき人で御座るのに……』
『呉葉――』
『お母さまも喜びの涙にひたされてゐられます……お父さまも……お兄さまも……』
『…………』
窕子はじつとしたまゝ長い間何も言はなかつたことを呉葉は今でもはつきりと覺えてゐる。その時は、窕子のその態度を寧ろ不思議に、何うしてさういふ風に進まないのであらう、これほど目出たい嬉しいことはないのにと思つたが、今ではさう思つたこの身が淺はかで、窕子の容易に心を起さなかつた心がはつきりそれと指さゝれるやうな氣がするのであつた。しかしその時には呉葉にはそれはわからなかつた。
何も返しをやつたからとて、それが何う彼うなるといふのではない。そのためすぐ身を任せなければならなくなるといふのではない。二度三度歌の贈答をして、それでいけなければ、いくらでも斷ることが出來る。兎に角、さう言つて歌まで下すつたものを無下にかへし歌もせずにかへすといふわけにも行くまい。かへし歌だけは何うしてもしなければ無禮にあたる。かう父も母も兄も言ふので、たうとう窕子は筆を執つて次の歌を書いた。
[#ここから3字下げ]
語らはん人なき里に
時鳥
かひなかるべき聲な古しそ
[#ここで字下げ終わり]
全く振向いても見ないやうなつれない歌だ。これでは餘りにひどいではないか。『音にのみきけばかひなし時鳥こと語らはん思ふ心あり』といふ先方の歌に對して餘りに無禮にはあたりはしないか。かう思つて父母は心配し、呉葉は呉葉で、意味もわからすに、共に共に勸めたけれども、窕子はそれ以外には默つて何も言はなかつた。爲方なしに、そのつれない歌でも、かへし歌をしないよりはする方がまだましだといふので、それを文使のものに持たせてやることにした。
その時のことを呉葉は一年後の今になつてありありと思ひ出した。
三
歌の贈答が絶たれようとしてしかも絶たれず、男心の切なる戀に弱い女心が次第にそれとなしに引寄せられて行くさまがそこに細かな美しい巴渦を卷いた。切な男の戀心を女の身として誰が受げ容れずにゐられようか。何んなに石の心でもそこにさゝれ波の微かな濃淡の影を湛へずにはゐられるものではあるまい。靜かに靜かに音を立てるせゝらぎ、そのせせらぎにさし添つて來る日の影、何んなに深い樹のかげでも、それがさゝやかな光を反映させずには置かぬやうなところにその戀のまことの心の影が微妙な美しい綾を織つた。
後には窕子はそのかへし歌をすらすらと美しい假名でみちのく紙の懷紙に書いた。
時雨が降り、鹿の鳴く音が野邊に微かにきこえる頃には、もはや窕子は初めて歌をかへした時のやうな心ではなかつた。否、かへつて男から贈つて來る歌を待つやうな心持になつてゐた。
それの來ない日には、窕子は何となしに佗びしさうに見えた。庭の中なぞをそこともなしに歩いた。いつもならば決して行つて見ることなどのない崩れた築土の方までも裳を※{#「賽」の「貝」に代えて「衣」、第3水準1−91−84]げて草をわけて行つた。そしてその崩れた築土のかげのところに咲いてゐた名も知れない細かい赤い白い花などを手に採つて持つて來たりなどした。何うかすると、白い韈の上部が朝の草の露に微かに色づけられてゐることなどもあつた。
その頃のことだつた。まだ加茂の冬の祭には間があつたが、鞍馬あたりは紅葉が盛りで、今年もきさいの宮の行啓があるなどと言はれてゐた頃のある日の夕暮――夕暮と言つてもとろ日の光は全く竹むらの梢にも殘つてはゐず、夜の色が薄ぼんやりとあたりに迫つて來てゐた時、呉葉は今まで曾て見たことのない光景のゆくりなくそこに展けられてあるのを目にしてはつとして立留つた。かの女は今しも厨の方から窕子のゐる西の對屋の方へと二三歩足をすゝめたばかりであるが、見てはならないものを見たやうな氣がしてかの女はじつとそこに立盡した。
かの女の眼に映つたのは他でもなかつた。その築土の崩れのところを誰が見てもそれと點頭かれる狩衣姿の上品な若い男が童姿の供を一人つれて、そこを乘り越えて此方へと入つて來ようとしてゐる形であつた。その人はその向うの物かげに呉葉が立つてゐて、息を殺してそれを見てゐるなどとは夢にも知らず、薄暮の空氣があたりを名殘なく蔽ひ包んでゐるので、もはや人目にかゝる恐れもないといふやうに、何の躊躇もなしに、その崩れを乘り越して、草原の亂れがましい中をそのまゝ一歩一歩西の對屋の東の口へと近寄つて行つた。童姿の供の太刀の薄暮の中に動くのもそれと微かに透いて見えた。
呉葉はじっとして蹲踞んでゐた。これはかうなるのが當り前だ! といふ風にかの女は思つた。かうなるのを邸の人達も皆な望んでゐる。その身とてさう望んでゐた筈である。これでもし縁が結ばれるならば、むしろそれは目出たいことである。さう思ひながらも、何となく胸がドキドキして、何う女君はするだらう。もしかしたら、それを拒むかも知れない。入って行くのを膠もなく拒むかも知れない………。かう思つて見てゐると、童姿の供はそこにぼんやりとその輪郭を薄暮の空氣の中に色濃く見せてゐるけれども、その男の方の姿は、いつかすひ込まれるやうにその内に消えてなくなつて了つてゐる。否、その少し前にその入口のところに女君が出て來たやうである。此方がさう思つてゐるためにさう見えたのかも知れないけれども、たしかにそこにその輪郭が見えたやうな氣がする。しかも耳を聳てゝきいてゐても、別に今入つて行つた男を拒むやうな氣勢も何もきこえて來ない。もし何か女君が聲を立てるやうなことがあつたら、すぐ入つて行かうと身構えしてゐても、さうした氣勢は少しもきこえて來ない……。爲方なしに、呉葉もじつとしてそこに蹲踞んでゐた。
始めはむしろそれを拒んでゐた歌の贈答がいつの間にかさうでなくなつてゐたのであるのがそれとはつきり呉葉の胸に響いて來た。あたりはしんとしてゐる。竹に當る風すらもない。何處かで下司の醉つて罵つてゐる聲がきこえてゐるが、それが大通であるかそれとも此方の家の内であるかはつきりとわからない。崩れた築土を越して向うに明るく闇に見えてゐる窓がある。次
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