世離れたさびしい庵が映つた。ついそこが竹の縁になつてゐて、その向うに筧から清水のちよろちよろと落ちてゐるのが繪卷の中の一つの光景であるやうに見えた。そしてその向うは少しの場所が畠になつてゐて、もはやかなりに丈が高くなつてゐるもろこしが風にガサガサと動いてゐた。庵の中央には大きな厨子があつて、そこに二尺五寸ほどの釋迦如來の木像が据ゑられてあつた。香爐だの、香皿だの卷物だのが一面にその前の經机の上に置かれてあるのを窕子は見た。
道綱は挨拶がすむかすみもしないのに、逸早くそこを飛び出して、『遠くに行くんではありませんよ』と言ふのをも耳に入れずに、そのまゝ向うの草原の中へと入つて行つた。
『生中ひとつでも松蟲を取つたもんですから……』
『まア、さやうでございますか。松蟲や鈴蟲なら、此處にも澤山をりますほどに、あとでいくらでも取つてさし上げてもよろしうございます……』
かうした山の中の庵室にまでも、かの女と道綱とが、東三條殿で名高くなつてゐるといふことは、一面不思議な心持を窕子に誘つた。都にゐれば、さういふ風に他から取扱はれるといふことは、一種の屈辱を感ずることであつたけれど――ことに殿の女性に對しての振舞が世間に知れわたつてゐるので、一層さういふ氣持を味はずにはゐられないのであつたけれど――そのためその身の女の歌人としての名譽すら全く汚されたやうな心持さへするのであつたけれども、こゝではそれと反對に、殿の威光がさういふ形にまで大きくひろがつてゐるのがそれとわかるので、その爲めかの女の肩身がひろくこそなれ、決して狹くはならないのであつた。(まア、かういふ美しい方!)と言ふやうに誰の眼にも映るのが得意といふまでではないにしても、決して不愉快ではないのであつた。
『それでも、よく徒歩から御出でになられましたな?』
老尼はそこに冷たい清水を持つて來て勸めたりしながら言つた。
『でも、かなりにあるにはありましたね……もう少し近いところかと思うた――春ならばこのくらゐの路は、かへつて徒歩より來る方が樂しみで好いのでござれど……姉者はくたびれた?』
『それほどでもない……。そんなに遠くはありませんもの……。あの丘ひとつ越しただけですもの……』
かをるもあたりがめづらしいといふやうにして言つた。
窕子はそのゐるところが比較的高い位置にありながら、またかなりにひろい平地でありながら、四面が全く山で取圍まれたやうになつてゐるのをさもめづらしさうに、あつちへ行つて立つたり此方へ來て立つたりして眺めた。(いつそかういふところに來て靜かに住んでゐたら……)窕子はこんなことを胸に浮べた。
若い方の尼は、つめたい清水に糖を入れた茶椀などを持つて來て、それをそのめづらしいお客の前に竝べた。
『何にもさし上けるものはございませんけど、この清水だけは、それは冷たうございますから……。室のこほりのやうでございますから』
『おう、つめたい』窕子はぐつとそれを飮み干して、『もう一杯! 今度は糖を入れずに――』
若い尼はそのまゝそれを持つて向うの方に行つて、山よりのところにもくもくと湧き出してゐる綺麗な清水にその椀を入れて汲んだ。窕子は氣輕に立つてそれを縁のところからのぞくやうにしたが、『そこに湧いてゐるんですね……。まア、何て好いんでせう!』かう言つて、たまらなくなつたといふやうにそこにあつたわら沓をつゝかけてそつちへと行つた。
若い尼の手から茶椀を取つてそれをまた一口に飮み干した。
『姉者來て見やな……』
かをるもその聲をきいてそつちへと下りて行つた。二人はやがてそこに立つて、そのもくもくと漲るやうにわき出してゐる清水を眺めた。
『まア綺麗ねえ!』
『山はこれだから好いのねえ! 私にもその椀貸して?』
かをるも自分で茶椀をその中に入れて二杯も三杯もつゞけて飮んだ。
『坊のあるじもこれだけは羨しいつて、參る度に申してをります!』
若い尼は傍から言つた。
『さうでせうね。坊にも清水はあるにはあるけれども、こんなに好いのはございませんもの……』
『本當ね』
かをるも言つた。
『ですから、夏は始終此方に來てゐたら、さぞ好いだらうなどと申してをるのでございますの』若い尼はこんなことを言つたが、そのまゝ厨の方へと行つて、そこからさつきの里の女が持つて來て置いて行つた黄く熟した甜瓜を五つ六つ持つて來てそこに浸けた。
『すぐ冷えますでのう』
冷えたら、京のめづらしいお客さまにさし上げようといふのであつた。
老いた尼は晝前の讀經を小聲で始めた。香の烟が靜かに※[#「風+昜」、第3水準1−94−7]る――をりをり鳴らす鉦が靜かに鳴つた。やつぱり山の中にかくれた優婆塞であるといふ氣が窕子達にもした。
此方では若い尼と窕子とが歌の話を始め出した。初めに若い尼の方が歌を書いて見せると、今度はそこにあつた檀紙に綺麗な手跡で窕子が昨日詠んだ歌を書いて見せたりした。話は容易に盡きようとはしなかつた。内裏で歌のうまい人達の話などもそこに出た。道綱がやがて松蟲を三疋も四疋も捕つて戻つて來た。つめたくなつた甜瓜の皮も厚く剥かれた。
三六
『え?』
びつくりしたやうな調子で窕子は聲を立てた。かの女はそれとも知らずにこの話をそこに持ち出した若い尼の顏をじつと見詰めた。すぐつゞけて、
『それは本當ですか?』
『本當でございますとも……。私などは詳しいことは存じませんけれども、今から五十年も前のことださうでございます。大變なことだつたさうでございます……』
『それではその六條どのの姫君と申すのは、現にそこにゐるその老尼さまだと仰しやるのでございますか?』
『さやうでございます』
窕子の言葉につれて若い尼の言葉も丁寧に改められて行つた。
『まア――』
窕子はかう言ふより他爲方がなかつた。かの女は佛間に向うむきに坐つて讀經してゐる老尼の方に目を遣らずにはゐられなかつた。
『まア、本當でございますかねえ? 六條の四の姫君、先々代の御門の女御に上がるばかりになつて身をかくした? ――下司の建禮門につとめてゐるものと身をかくした?』あとの一句は窕子も流石に聲を低くした。
『さやうでございます……。』
『まア、ねえ、思ひもかけぬこと――ほんに思ひもかけぬこと――』かの女の頭には、幼い頃祖母から聞いたその時の騷ぎやら噂やらが今更のやうにそこにはつきり浮び出すのだつた。
祖母の話では、それは非常な騷ぎであつたといふ。名高い美しい姫で、其當時のあらゆる姫だちの中でも群を拔いてゐたといふ。また御門がその姫の美しいのを知つてゐられたばかりでなく、その女御として内裏に入つて行くのを指折り數へて待つて居られたので、何うすることも出來ないので非常に困つたといふ。否、そればかりではない、その姫は死んだか生きたかその行方がわからない。當時の御門の力で、または六條殿の力で、あらゆることをして搜したけれども、何うしてもわからない……。それで長い長い月日が經つた。世間ではいつかそのことを忘れた。その髮の長い黛の美しい姫のことを忘れた。六條殿でも、かうわからぬのでは、もうこの世に生きてゐるのではあるまい、地の下に穩かに眠つてゐるのであらう。かう思つてそれを搜すことをあきらめた。そればかりではない、間もなく六條の大殿がおかくれになり、その北の方も、平生四の君、四の君と可愛がつてゐられただけに、それを苦に、そのあとを追つて行かれた。時がまた經つて行つた。その御門さへ位をお讓りになつて二三年して崩御になつた。世の中も丸で遷り變つた。もはやさうした戀愛の話をするものもなければ記憶するものもなかつた。新しい時代の人達も同じいやうに苦しい戀をし、逢はれぬ苦しさを嘆き、思はぬ相手に添はなければならない涙を流してゐるにはゐるのだけれども、しかも過ぎ去つたことはもはやその心に響いては來なかつた。ところが、窕子にその話をしてきかせた祖母が死んでからまた五六年經つて、かの女が殿の許に來るやうになつた時分、ひよつくりひとつの物語が傳はつた。それは四の君がまだ生きてゐるといふことだつた。それもその一緒にゐる男は、その建禮門につとめてゐた同じ下司で、年はもはや六十に近く、女の方は五十を越してゐて、その時分にも睦まじく暮してゐるといふことだつた。そしてそれが何うしてわかつたかといふと、東國に下つたある侍の下司、その男の父親がその建禮門につとめてゐた下司と朋輩だつたので、よく互に出入りしたので、子供心にもそれを記憶してゐた。ところが、何でも武藏野の奧、それもずうつと秩父の方に寄つたところに用事があつて、そこに行く途中、日が暮れたので、無理に頼んである茅屋に泊めて貰つた。ところが、そこにゐた爺がその子供の時に父親のもとに出入りした下司の男によく似てゐる。非常によく似てゐる。何うも不思議だ……。顏もさうだが、聲がそつくりだ。『太郎は今に大きうなつてえらうなるの? 院の武士になるのう?』などと言つて頭を撫でたりした下司にそのまゝだ。しかしその彼が何うしてもこんなところにゐるとは思へない。他人のそら肖といふこともある。大方それだらう。滅多なことは言ひ出せないなどと思ひ返しても見たが、何うしてもそれに違ひない。それにはその時分子供心にも不思議なものがあると思つて見てゐた耳のところに出來てゐる小さな疣もそのまゝそこにある……。それでかれはたうとうそれを言ひ出した。ところがその爺は、おお、さうぢやつたか、あの時の太郎ぢやつたか? と言つて、ぽろ/\涙を流してその素生を打明けた。そしてそこにゐる婆は、その評判な四の君で、それ以來かれ等は此處に來て一生を送つたといふことだつた。それがまた一時京の噂の種となつて、『それこそ本當の戀と言ふものぢや。さうしてその戀を添ひ遂げたのが羨しい』といふものもあれば、その一方には、『それはその四の君が色戀の道といふことを知らんのぢや。戀愛といふものはさういふものではない。それからそれへと移つて行くのが本當ぢや。それが戀愛ぢや』などといふものもあつて、殿もある夜醉つてやつて來て、『何うぢや、それなら一緒に武藏野の奧へ行くか。さうすれば、いやでも朝夕一緒にゐられる……。しかしさう一緒に顏ばかり見てゐたつて、戀はつまるまい。お互に離れてゐて、逢いたうなるのでよいのぢやないかのう』などと言はれたことをかの女ははつきりと覺えてゐる。否、それから暫く經つて、それとわかつてゐながら捨てゝ置くわけには行かないといふので、六條殿から使者を東國に出したなどといふ話はきいた。しかしそれだけだつた。それからあとのことは知らなかつた。
『え、さうださうです。その相手がゐる中は、いくら此方から使をやつても戻つては來なかつたさうです……。ところが、今から五六年前、たうとうその相手が亡くなつたので、それで、その屍を燒いて、その骨を持つて、高野へ行つて、そこではじめて身を墨染に更へたのださうです。』
『まアねえ』
さう言つた窕子の眼の前には、戀愛の世界がはつきりとそこに展げられて來るやうな氣がした。誰だつて皆な同じことだ。皆なさうなるのだ……。何んなにあつい心でも、また何んなに思ひ詰めた心でも皆なおしまひはさうなるのだ……。かの女の眼の前には、今でも美しい色彩やら戀のみだれ心やらで滿たされてゐる内裏の局の内部のことなどが歴々と浮んで見えた。
『よくそれでもねえ!』
窕子は何方ともつかないやうなことを言つて、
『それでも昔の話などをなさることがございますか?』
『ちつとも……』
若い尼は頭を強く振つて見て、『いつもあゝして經を誦してゐられるばかりです』
『それでも、東國の話などをなさるやうなことは?』
『この山の中がよう似てゐるなんて言ふには言ひますけれども……そんなことはもうあまり多く考へてはゐられないやうでございますね……』
『それでお里の方からは、たまには何方かがお見えになりますか?』
『ところが、そのお里方にも、もはやその時分の方はいらつしやいませず、ひとり殘つてゐらつした姉の姫宮――御存じでゐらつしやいませうが、兵部
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