え。もう鼻唄が出たよ』
 母親は其処《そこ》に立つて居る次男に小声で言つた。
 岸には送つて来た人々が並んだ。門の前で別れて来た人もあつた。町の入口で別れをつげた人もあつた。町はずれまで来て、さらば! を言つて行つた人もあつた。其川の岸まで来たのは最も親しい人達であつた。
 次男を送つて来た一人の青年は、其友達のかうして東京に出て行くのをさも羨《うらや》ましさうに見送つて居た。
 船が動き出した時、盲目《めくら》のお婆さんを除いては、皆《みん》な船縁《ふなべり》の処に顔を並べた。岸の人々も別れの言葉を述べた。
 船は静かに流を下《くだ》つた。

     三

 其頃は汽車が今のやうに便利でなかつた。運賃も高かつた。で、この家族はかうして船で東京に行くことになつた。東京から毎日来る小蒸気は、其頃ペンキ塗の船体を処々《ところどころ》の埠頭《はとば》の夕暮の中に白くくつきりと見せて居た。
 老人達に取つては、その経て来た時代の推移ほど急激なものはなかつた。此人達は大小を指して殿様の行列の後に踉《つ》いて歩いた。勤王佐幕《きんわうさばく》の喧《やかま》しい争闘の時には昼夜兼行《ちうやけんかう
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