涼しくなつた頃から、船頭は船を漕ぎ出した。もう海はさして遠くなかつた。岸には芦荻《ろてき》や藻が繁つて、夕日が汀《みぎは》を赤く染めた。
 それに幸《さいはひ》に追手の夕風が吹いた。船頭は帆を揚《あ》げて、楫《かぢ》をギイと鳴らして、暢気《のんき》に煙草をふかした。誰の心も船のやうに早く東京に向つて馳《は》せて居た。
 古戦場だといふ高い崖の下を通る頃には、もう夕暮の薄暗い色が、広い川一面に蔽ひかゝつた。
 東京に入《はい》つて行く掘割は、それから一里ほど下《くだ》つた処にあつた。それは川口といふところで、和船で交通をする時分には、随分|繁華《はんくわ》な船着であつた。かなり聞えた料理屋も二三軒はあつた。其処《そこ》では田舎にめづらしい海の魚が食へた。赤い帯を締《し》めて戯談《じやうだん》を言ふ女も大勢居た。藩の好《い》い家柄の子息《むすこ》で女房子がありながら、此処《ここ》でさういふ女に溺《おぼ》れて評判に立てられたこともあつた。其頃東京に出る人は、『川口に行けば、むきみ汁が食へる』かう言つて誰も楽しみにして来た。
 しかし今ではわざ/\寄つて食事をして行くものもなかつた。料理屋も段
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