洗つて居るのが眺められたりした。其処《そこ》に泊つて居る船も五六艘はあつた。朝炊《あさげ》の煙《けぶり》が紫に細く騰《あが》つた。
『朝の気持は好《い》いなア……何うだ定公《さだこう》』
 かう隣の老人は其処《そこ》に立つて朝の川を眺めて居る兄の方の青年に言つた。
 お爺さんは、
『朝酒といふものは旨いものだ』
 こんなことを言つて、朝飯の時盃を隣の老人にさした。隣の老人は二三度|辞《ことは》つて見たが、それでも後《あと》では四五杯受けて飲んだ。
 隣の老人は、財布にいくらの金をも持つて居なかつた。只《ただ》で乗せて伴れて行つて貰へるからこそ出て来たほどの貧しい身には、世話になるは気の毒だとは思ふが、しかし酒を買ふほどの余裕はなかつた。船に売りに来る大福を買つて、それを弟《おとと》の少年や盲目《めくら》のお婆さんに分けて遣《や》る位の義理が関の山であつた。孫達の話が出ても、上京する一家族の希望に満ちた有様とは比ぶべくもなかつた。隣の老人はいつも小さくなつて居た。他人の世話になる辛さをもつくづく感じた。
『常さんがしつかりして居るから、本当に仕合だ』
 いつもかう言つて調子を合せた。
 
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