老人は何の準備《したく》もして来なかつた。酒も飯も黙つて御馳走になつて居た。それも困つて居るからだと主婦は思つて居た。
 爺さんもそれを余り虫が好過《よす》ぎると思つて居たらしかつた。
『お爺さん、あんなことを言はなけりや好いのに――折角、心地《ここち》よく連れて来てやつたのに』
 隣の老人が舳先《へさき》の方に行つた跡で、主婦《あるじ》は老爺《らうや》に小声で言つた。
『何アに、少し位言つてやる方が好い。余り虫が好過《よす》ぎる』
 かう言つた爺さんは、もうかなり酔つて居た。
『だツて困つて居るんだから』
『困つて居たツて、余りだ、瓢箪《へうたん》の一つ位持つて来たツて誰も悪いツて言はない……何もおれだツて、そんなことを喧《やかま》しく言ふぢやないけれどな……義理と言ふものがあらア』
 其処《そこ》に下《お》りて来た兄の少年は、またお爺さんの癖が始まつたなと思つた。
 螢が一つ闇の中に流れる頃には、船はもう広い広い利根川に出て居た。星の光に水の流るゝのが暗く綾《あや》をなして見えた。艫《ろ》の音が水を渡つて聞えた。
 遠い河岸《かし》には、灯が処々《ところどころ》に点《つ》いて居るの
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