て来て、それを菜《さい》にした。
『江戸では、今は松魚《かつを》の盛《さかり》ですな』
『在番《ざいばん》した時分――、勢《いきほひ》の好《い》いあの売声を聞いて、窓から皿を出して買つて食つた時分のことが思はれますな』
 少し酒を呑みながら、老人達はこんなことを言つた。
 午後には、主婦は連日の疲労につかれ果てたといふやうに、平生《へいぜい》使ひ馴れた黒柿《くろがき》の煙草の箱を枕にして、手拭を顔にかけて、スヤスヤと昼寝をして居た。苫《とま》の間から河風が涼しく吹いて来た。
 老人達も少し酔つてやがて寝て了《しま》つた。兄の少年が船から下《お》りて来た時には、盲目《めくら》の婆さんも、鼻唄をやめて横になつて居た。晴れた日影《ひかげ》はキラキラと水に反射して今が暑い盛《さかり》であつた。襦袢《じゆばん》をも脱棄てた二人の船頭は、毛の深い胸のあたりから、ダクダク汗を出しながら、竿《さを》を弓のやうに張つて、頭より尻を高くして船縁《ふなべり》を伝つて行つた。眼の悪い方の船頭は、眼脂《めやに》を夥《おびただ》しく出して、顔を真赤にして居た。
 涼しい蔭をつくつた竹藪などはもうなかつた。

  
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