るやうなのが出来た。もう持つて来た酒を大抵飲み尽した爺さんは、『船頭さん、其処《そこ》に行つたら鳥渡《ちよつと》寄せて下さいよ』余程前からかう言つて其岸に来るのを待つて居た。
『此処《ここ》の白味淋《しろみりん》はそれや旨いな』
船頭達もかう語り合つた。
『買つて来て上《あ》げやしやうか』と一人の船頭が言ふのを、『何に、私が買つて来る、他に用もある』かう言つて断つた爺さんは、途中で船頭に飲まれるのをひそかに恐れて居た。爺さんは徳利《とくり》を下《さ》げて、禿頭を日に光らせながら踏板を伝つて行つた。
七
徒歩《かち》で行けば其処《そこ》から東京まで三里位しかないという河岸《かし》に来て、船頭はまた船を繋《つな》いだ。とても今日は東京に入ることは出来ないから、暑い中を此処《ここ》で休んで涼しくなつてから出懸《でか》けやうといふ船頭の腹であつた。
船に飽きた人々は皆な不平を言つたが、しかし真夜半《まよなか》に東京に着いても仕方がなかつた。止《や》むなく此処《ここ》で待つことにした。
と、隣の老人は、
『甚《はなは》だ失礼ぢやが……まだ日が高いし、それに今日東京に入《はい》つて置くと、都合が好《い》いから私《わし》は此処《ここ》で失礼して歩いて行かうと思ふんぢやが……』
かう言ひ出した。世話になるのも気に懸《かか》れば、爺さんから酔つてチクチク言はれるも辛かつた。
誰も引留《ひきと》めはしなかつたが、しかし余り好《い》い心地もしなかつた。
『定公《さだこう》、また東京で逢はうな』
持《も》つて来た風呂敷包を背負《せお》つて、古びた蝙蝠傘《かうもりがさ》を持つて、すり減した朴歯《ほほば》の下駄を穿《は》いて、しよぼたれた風《ふう》をして、隣の老人は暇《いとま》を告て行つた。土手の上には枝を張つた大きな栃《とち》の樹があつて、其傍の葭簀張《よしずばり》には、午後四時過ぎの日影が照つて居た。兄の少年は其の隣の老人がとぼ/\と土手に登つて行くのを見えなくなるまで見送つて居た。
『もう歩いて行かれるからツて、此処《ここ》まで連れて来て貰《もら》つて、余り勝手過ぎるのさ――』主婦はかう言つた。
『碌に銭を持たねえで、人の借りた船で、飯も酒も食つたり飲んだりして此処《ここ》で下《お》りるツて、好く言へたもんだ』爺さんもこんなことを言つた。
八
涼しくなつた頃から、船頭は船を漕ぎ出した。もう海はさして遠くなかつた。岸には芦荻《ろてき》や藻が繁つて、夕日が汀《みぎは》を赤く染めた。
それに幸《さいはひ》に追手の夕風が吹いた。船頭は帆を揚《あ》げて、楫《かぢ》をギイと鳴らして、暢気《のんき》に煙草をふかした。誰の心も船のやうに早く東京に向つて馳《は》せて居た。
古戦場だといふ高い崖の下を通る頃には、もう夕暮の薄暗い色が、広い川一面に蔽ひかゝつた。
東京に入《はい》つて行く掘割は、それから一里ほど下《くだ》つた処にあつた。それは川口といふところで、和船で交通をする時分には、随分|繁華《はんくわ》な船着であつた。かなり聞えた料理屋も二三軒はあつた。其処《そこ》では田舎にめづらしい海の魚が食へた。赤い帯を締《し》めて戯談《じやうだん》を言ふ女も大勢居た。藩の好《い》い家柄の子息《むすこ》で女房子がありながら、此処《ここ》でさういふ女に溺《おぼ》れて評判に立てられたこともあつた。其頃東京に出る人は、『川口に行けば、むきみ汁が食へる』かう言つて誰も楽しみにして来た。
しかし今ではわざ/\寄つて食事をして行くものもなかつた。料理屋も段々つぶれて了《しま》つて、一番下等なのが唯一軒残つた。爺さんは此家の爺婆《ぢいばば》に昔から懇意であつた。一家族の人々は船から上《あが》つて、暗いランプのついた狭い汚い間で、兼ねて噂に聞いて居る生魚《なまうを》とむきみ汁とを食つた。
兄の少年の眼には曾《かつ》て栄えたところとは何《ど》うしても見えなかつた。闇の田圃《たんぼ》の中に、五六軒|茅葺家《かやぶきや》があつて、其処《そこ》から灯が唯ちら/\見えた。
此処《ここ》でも、船頭は矢張容易に船を出さなかつた。待ちかねて爺さんが其|所在《ありか》を尋ねに行つた。やがて『酒を飲んで酔ぱらつてゐやがる』かう言つて帰つて来た。
船が出た頃には、遅く出た月がもう高くなつて居た。狭い掘割の両側には種々《しゆじゆ》な樹が繁つて、それが月の光を篩《こ》して、美しい閃《きらめ》きを水に投げた。夜《よ》はしんとして居た。ところ/″\にかゝつてゐる船の苫《とま》の中からは灯が見えた。犬の吠える声が四辺《あたり》に響いて高く聞えた。
夏の夜《よ》は明易《あけやす》かつた。両側に人家が続いたり、橋が架《かか》つたりするあたりに来る頃には、もう全《まつた
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