田山花袋

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)其処《そこ》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中《ちう》二|階《かい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)婆さん[#「婆さん」は底本では「姿さん」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\の
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 家の中《ちう》二|階《かい》は川に臨んで居た。其処《そこ》にこれから発《た》たうとする一家族が船の準備の出来る間を集つて待つて居た。七月の暑い日影《ひかげ》は岸の竹藪に偏《かたよ》つて流るゝ碧《あを》い瀬にキラキラと照つた。
 涼しい樹陰《こかげ》に五六艘の和船《わせん》が集つて碇泊して居るさまが絵のやうに下に見えた。帆を舟一杯にひろげて干して居るものもあれば、陸《をか》から一生懸命に荷物を積んで居るものもある。此処等《ここら》で出来る瓦や木材や米や麦や――それ等は総て此川を上下する便船《びんせん》で都に運び出されることになつて居た。その向こうには、某町《なにがしまち》から某町《なにがしまち》に通ずる県道の舟橋がかゝつてゐて、駄馬《だば》や荷車の通る処に、橋の板の鳴る音が静かな午前の空気に轟いて聞えた。
 橋のすぐ下では、船頭が五六人、せつせと竹の筏《いかだ》を組んで居た。
『婆様《ばあさま》、小用《こよう》が出ないか。船に乗つて了《しま》うと面倒だからな』
 七十近い禿頭《はげあたま》の老爺《らうや》が傍《そば》に小さく坐つて居る六十五六の目のひたと盲《し》ひた老婆にかう言ふと、
『それぢや、面倒でも今一度連れて行つて貰うかな』
 やがて婆さんは爺さんに手を曳《ひ》かれて静に長い縁側を厠《かはや》の方に行つた。
『よくそれでも世話を見なさるな』
 これを見て居た六十五六の今一人の老爺《らうや》は、傍《そば》に居た五十二三の主婦に話しかけた。
 主婦は老人や子供の世話に忙殺《ぼうさい》されて居た。荷積の指図もしなければならなかつた。送つて来て呉《く》れた人々の相手にもならなければならなかつた。長い間住んだ土地を別れて来るに就いてのいろ/\の追懐や覊絆《きづな》もあつた。
『中々《なかなか》あの真似は出来ませんよ』
 かう言つたが、丁度《ちやうど》其時|今歳《ことし》十一になる弟《おとと》の方が縁《ふち》の方に駈けて下《お》りて行くを見付けて、
『正《しやう》や、川の方に行くと危ぶないぞ!』
 白絣《しろがすり》を着てメリンスの帯を緊《し》めた子は、それにも頓着せず、急いで川の下《した》の方に下《お》りて行つた。其処《そこ》にはもう十六になる兄が先に行つて居た。岸に繋《つな》がれた一艘の船には、長い間田舎家の茶の間に据ゑられた長火鉢だの、茶箪笥だのがそのまゝ積まれてあつた。
『それ、あの船だぜ!』
 兄はかう弟《おとと》に言つた。
『どれや、どの船?』
『それ、火鉢があるぢやないか』
 其船の船頭は目腐《めくさ》れの中年の男で、今一人の若い方の船頭は頻りに荷物を運んで居た。髪を束ねた上《かみ》さんは苫《とま》やら帆布《ほ》やらをせつせと片付けて居た。
 一家族は此処《ここ》から一里ほど離れた昔の城下の士族町から来た。老人夫婦に取つても、主婦に取つても、長年《ながねん》住み馴れた土地や親しい人々に別れて来るのは辛かつた。東京に行つて、知らぬ土地の土になるのは厭《いや》だ! かう目の盲《し》ひた婆さんは言つた。長年《ながねん》苦労した種に芽が生えて、十分ではなくても、兎に角|子息《むすこ》が月給取になつて、呼んで呉《く》れるのは嬉しいが、東京といふ処は石の上の住居《すまゐ》、一晩でも家賃といふものを出さずには寝られない。それよりはどんなにあばら屋でも、自分の家《うち》で足を長くして寝て居る方が好い。主婦もいざとなつてからかう言ひ出した。しかし月給取になつた子息《むすこ》を一人都に離して置くのも気がかりであつた。それに修業盛《しふげふざかり》の弟達《おととたち》の為めもあつた。
 親類や知人などは一月《ひとつき》も前から、お別れだと言つては、饂飩《うどん》を打つたり肴《さかな》を買つたりして、老夫婦や主婦を呼んで御馳走をした。
 一人の娘は去年さる機屋《はたや》に望まれて嫁にやつた。今年の四月頃から懐妊の気味で、其の前から出るの入《はい》るのと言つて居たが、愈々《いよいよ》上京の話が決ると、『私《わたし》ばかり置いて行くのかえ、母《おつか》さん』と言つて泣きに来た。母親は、『まア、何《ど》うにでもするから、兎に角体が二つになるまで辛抱してお出《い》で』かう宥《なだ》めたり賺《すか》したりしたが、今朝《けさ》発《た》
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