つて来る時にも、町の外《はづ》れまで送つて来て、大きな腹をして、垣《かき》の処に寄りかゝつて泣いて居た。
目の盲《し》ひたお婆さんは、車に乗ると眼が眩《まは》ると言ふので、昔|御国替《おくにが》への時乗つて来たやうな軽尻馬《からしりうま》をわざわざ仕立てゝ、町の通をほつくり/\と遣《や》つて来た。『盲目《めくら》でも眼が廻るのかねえ』と誰かが言つた。
維新前から船の問屋の爺《おやぢ》を知つて居るお爺さんは、朝から禿頭を光らして出かけて行つて居た。
二
船の準備《したく》がやがて出来た。
長い踏板《ふみいた》が船縁《ふなべり》から岸に渡された。一番先に小さい弟《おとと》が元気よくそれを渡つて、深い船の中に飛んで下《お》りた。其処《そこ》まで送つて来た婿の機屋《はたや》が盲目《めくら》のお婆さんを負《おぶ》つて続いて渡つた。お爺さん、主婦、それから便船《びんせん》を幸ひに東京まで乗せて行つて貰はうといふ隣のお爺さんも乗つた。
船の中はちやんと整理がしてあつた。暑くないやうに、一ところ苫《とま》が葺《ふ》いてあつて、其処《そこ》に長火鉢や茶箪笥が置いてある。炭取には炭が入れられてある。いつでも茶位入れられるやうになつて居た。
酒好きのお爺さんは、徳利《とくり》に上酒を一升ほど入れて来たが、子供に引くりかへされぬやうにと、それを茶箪笥の隅に押附けて置いた。
『お貞《てい》、それは酒だからな……こぼさぬやうにして呉りやれ』
かう主婦に注意もした。
『これさへありや、まア、退屈も凌《しの》げますぢや?』
隣のお爺さんとこんなことを言つて笑ひ合つた。
主婦は舅の酒には苦労を仕抜《しぬ》いて来た。夫の生きて居る間は、酒の上で二人はよく親子喧嘩をした。親類に呼ばれて行く時には、屹度《きつと》酔つて管《くだ》を捲《ま》いた。夫に別れてからでも、町の居酒屋で泥酔して、使《つかひ》を受けて迎へに行つたことなどもあつた。嫁に来た当座には、何処《どこ》か酒のない国に行き度《た》いと思つた。母親はよくかう子供等に話して聞かせた。しかし此頃では年を取つてもう大分おとなしくなつた。
盲目《めくら》のお婆さんは、座が定ると、懐《ふところ》から手拭を出して、それを例のごとく三角にして冠《かぶ》つた。暢気《のんき》な鼻唄が唸る《うな》るやうに聞え出した。
『暢気なものだねえ。もう鼻唄が出たよ』
母親は其処《そこ》に立つて居る次男に小声で言つた。
岸には送つて来た人々が並んだ。門の前で別れて来た人もあつた。町の入口で別れをつげた人もあつた。町はずれまで来て、さらば! を言つて行つた人もあつた。其川の岸まで来たのは最も親しい人達であつた。
次男を送つて来た一人の青年は、其友達のかうして東京に出て行くのをさも羨《うらや》ましさうに見送つて居た。
船が動き出した時、盲目《めくら》のお婆さんを除いては、皆《みん》な船縁《ふなべり》の処に顔を並べた。岸の人々も別れの言葉を述べた。
船は静かに流を下《くだ》つた。
三
其頃は汽車が今のやうに便利でなかつた。運賃も高かつた。で、この家族はかうして船で東京に行くことになつた。東京から毎日来る小蒸気は、其頃ペンキ塗の船体を処々《ところどころ》の埠頭《はとば》の夕暮の中に白くくつきりと見せて居た。
老人達に取つては、その経て来た時代の推移ほど急激なものはなかつた。此人達は大小を指して殿様の行列の後に踉《つ》いて歩いた。勤王佐幕《きんわうさばく》の喧《やかま》しい争闘の時には昼夜兼行《ちうやけんかう》で浜町の上屋敷に上訴に出かけて行つたこともあつた。維新の際には、若者達の出陣した後を守つて、其処此処《そこここ》の番所を固めた。
侍が士族となり、百姓が平民になつて、世の中は目眩《めまぐる》しいほどに変つて行つた。実力を持つた百姓町人が世に出て、扶持《ふち》を失つた士族が零落して行くあはれなさまをも見た。大名小路の大きな邸《やしき》が長い年月に段々つぶれて畑《はたけ》になつて行くのをも見た。御殿のあつた城址《しろあと》には徒《いたづら》に草が長《ちやう》じた。
隣の老人の家柄は、今移転して行かうとして居る家族よりは、数等《すうとう》すぐれた家柄であつた。昔ならば槍《やり》以上と以下とでは、殆ど交際が出来ぬほど階級が違つて居た。隣の老人は二百石の家柄で暢気《のんき》に謡ひをうたつて暮して来た。それに引かへて、一方の老人は賤《いやし》い処から武芸や文事《ぶんじ》を磨いて、人が驚くほど立身して、江戸家老のお気に入りに其人ありと知られるほどの勢力のある生活を送つて来た。
しかしこの二軒は昔しから隣同士に親んで居たのではなかつた。子息《むすこ》の死んだ後の家族を纏《まと》めて、家を買つて
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