其処《そこ》に其の禿頭の老人が移つて来てから、まだ十年と経たなかつた。
 孫達の話を老人達は常によく話し合つた。
『常さんがしつかりして居るから、お宅《たく》では仕合《しあはせ》ぢや』
 かう家柄の方の老人は言つた。
 家柄の方は家族も矢張息子に早く死なれて、孫に懸《かか》らなければならなかつた。総領は娘で、今年二十二になつて居た。田舎にはめづらしいほどの別嬪《べつぴん》で、足利に行つて居る間に、鹿児島生れで、其土地の中学校の教師をしてゐた男に見染《みそ》められて、無理に懇望されて嫁《とつ》いで行つた。一二度其婿が細君と一緒に、柴垣の奥の古い汚い茅葺家《かやぶきや》に来て泊つて行つたことなどもあつた。其時近所の評判は大変で、豪《えら》い婿さんが出来たなどゝ噂し合つた。婿は綺麗な八|字髯《じひげ》を生した立派な男で、丸髷《まるまげ》に赤い手絡《てがら》をした丈《せい》の高い細君とはよく似合つた。隣の次男は其婿が朝早く草の生えた井戸端で、真鍮《しんちう》の金盥《かなだらひ》で、眼鏡を外《はづ》して、頭をザブザブ洗つて居るのを見たこともあつた。
 処が一年後に、懐妊した細君を里に預けて、其婿は東京へ出て行つたきり帰つて来なかつた。約束した仕送《しおくり》は無論寄さなかつた。後《のち》には手紙が附箋《ふせん》を附けたまゝ戻つて来た。
 東京に出かけて行けば、探《さが》す手蔓《てづる》はいくらもある。中にはその居る所を教へて呉《く》れたものもある。しかし出懸《でか》けて行く旅費もないほどその家は困つて居た。その美しい娘はもう五月《いつつき》近い腹をして居りながら、乱れた髪をしてせつせと機《はた》を織つて居た。其処《そこ》に丁度《ちやうど》隣りの一家族の上京――で、頼んで無賃《ただ》で乗せて行つて貰へるのを喜んだ。

     四

『常《つね》さんがしつかりして居るから、お宅ぢやもう心配なことはない』
 隣の老人はかう主婦に言つた。
『何《ど》んなもんですか……苦労しに東京に行くやうなものかも知れませんよ。年寄に子供、力になるのは常《つね》ばかりですから』主婦は鳥渡《ちよつと》考へて、『それも、月給でも沢山取れるものなら好いですけれど……』
『始めからさう旨《うま》い訳には行かないぢや……』笑つて見せて、『けれど、正公《しやうこう》も成長《おほき》くなつたし、定公《さだこう》も学問が出来るから、お貞《てい》さん、もう安心なもんぢゃ。これからは楽《らく》が出来る』
『何《ど》んなもんですか』
 主婦はかう言つた。しかし永年《ながねん》一人で苦労して来た老人や子供の世話を、東京に行けば、子息《むすこ》と一緒にすることが出来ると思ふと、何となく肩が下《お》りるやうな気がした。子息《むすこ》と住むといふことも嬉しかつた。
『それにしても、お宅のは?……御出《おいで》になる所は分つて居るのですか』
『大抵は知れて居るのですけれどな……何《ど》うも不都合で困るぢやな』
『御心配ですねえ』
 かう主婦は同情した。
 船頭は竿《さを》を弓のやうに張つて、長い船縁《ふなべり》を往つたり来たりした。竿《さを》を当てる襦袢《じゆばん》が処々《ところどころ》破れて居た。一竿《ひとさを》毎に船は段々と下《くだ》つて行つた。
 此附近には竹藪が多かつた。水量の多い今は巴渦《うづ》を巻いて流れて居るところもあつた。渡船《とせん》小屋が芦荻《ろてき》の深い茂みの中から見えて居たり、帆を満面に孕《はら》ませた船が二艘も三艘も連つて上《のぼ》つて来るのが見えたりした。竹藪の鳥渡《ちよつと》途絶《とだ》えた世離《よばな》れた静かな好い場所を占領して、長い釣竿を二三本も水に落して、暢気《のんき》さうに岩魚《いはな》を釣つて居る鍔《つば》の大きい麦稈《むぎわら》帽子の人もあつた。
 川に臨んで、赤い腰巻を出して、物を洗つて居る女もあつた。
 二人の少年は物珍らしいので、下に坐つてなどは居なかつた。紺絣《こんがすり》の兄と白絣《しろがすり》の弟《おとと》と二人並んで、じり/\と上から照り附ける暑い日影《ひかげ》にも頓着《とんぢやく》せず、余念なく移り変つて行く川を眺めて居た。
『霍乱《くわくらん》にでもなると大変だよ』
 主婦は下から首を出して、時々声をかけて呼んだ。
 兄の少年が手帳を出して、何か書きつけてゐると、其傍《そのそば》に、隣の老人は遣《や》つて来て、
『おい、定公《さだこう》、何か出来るか……』かう言つて聞いて見た。手帳には七言絶句の転結だけが書いてあつた。
 道具は大抵|菰包《こもづつみ》にして了《しま》つた。膳も大きなのを一箇《ひとつ》出してあるばかりであつた。昼飯には皆ながそれを取巻いて食つた。暑い日にも腐らぬやうな乾物《ひもの》だとかから鮭の切身だとかを持つ
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