居るかを知らなかつた。
川は暗かつた。岸の灯《ともし》が明るく処々《ところどころ》に点《つ》いて居た。誰か大な声を立てゝ土手の上を通つて行つた。
艫《ろ》の音が絶えず響く。
船の中にも蚊が居るので、主婦は準備して来た蚊帳《かや》を苫《とま》の角に引懸《ひきか》けて低く吊つて、其処《そこ》に一緒にゴタゴタに頭やら足やらを入れて寝た。棚の上の三分の洋燈《ランプ》は、薄暗く青い蚊帳《かや》を照して居た。涼しい河風がをりをり吹いて通つた。
兄の方の少年は、蚊帳《かや》の中に入《はい》つても、容易に眠られなかつた。眼が冴えて仕方がなかつた。かれは船を漕いで居る船頭の船尾《とも》の処に行つて、黙つて暗い水を眺めて立つた。
一人の船頭は、マッチを闇に摺《す》つて、大きな煙管《きせる》に火をつけて、スパリスパリ遣《や》つて居た。時々|苫《とま》の中の明るく見える船や、篝《かがり》のやうに火を焼《た》いて居る船などがあつた。
朝、人々が眼を覚した時には、船はある小さな埠頭《はとば》に留つて居た。朝霧の晴れ間から、青い蚊帳《かや》を吊つた岸の二階屋の一間《ひとま》が見えたり、女が水に臨んで物を洗つて居るのが眺められたりした。其処《そこ》に泊つて居る船も五六艘はあつた。朝炊《あさげ》の煙《けぶり》が紫に細く騰《あが》つた。
『朝の気持は好《い》いなア……何うだ定公《さだこう》』
かう隣の老人は其処《そこ》に立つて朝の川を眺めて居る兄の方の青年に言つた。
お爺さんは、
『朝酒といふものは旨いものだ』
こんなことを言つて、朝飯の時盃を隣の老人にさした。隣の老人は二三度|辞《ことは》つて見たが、それでも後《あと》では四五杯受けて飲んだ。
隣の老人は、財布にいくらの金をも持つて居なかつた。只《ただ》で乗せて伴れて行つて貰へるからこそ出て来たほどの貧しい身には、世話になるは気の毒だとは思ふが、しかし酒を買ふほどの余裕はなかつた。船に売りに来る大福を買つて、それを弟《おとと》の少年や盲目《めくら》のお婆さんに分けて遣《や》る位の義理が関の山であつた。孫達の話が出ても、上京する一家族の希望に満ちた有様とは比ぶべくもなかつた。隣の老人はいつも小さくなつて居た。他人の世話になる辛さをもつくづく感じた。
『常さんがしつかりして居るから、本当に仕合だ』
いつもかう言つて調子を合せた。
汽船で行けば一日で到着するほどの行程《かうてい》だが、和船では中々さう早くは行かなかつた。暑いと言つては休み、眠らなければならないと言つては碇泊し、荷の積替《つみかへ》をすると言つては、岸の小さい埠頭《はとば》に綱を繋《つな》いだ。荷の種類に由つては、二時間近くも其岸を離れることが出来ないこともあつた。
其時は『かう手間を取つては仕方がない、これではとても今日東京には入《はい》れない。此方《こちら》はまア、船の中で、一晩位余計に寝るのは好《い》いとしても、常《つね》が遅いツて待つてゐるだらう』かう主婦もお爺さんも一方《ひとかた》ならず気を揉《も》んだ。お爺さんは、わざと声を猫撫声《ねこなでごゑ》にして、『船頭さん、もう出しても好《い》い時分だね』などゝ声をかけた。
ある浅瀬では、余り暑いので、船頭が裸で水の中を泳いで居ると、船縁《ふなべり》で見て居た弟《おとと》の方の少年は、堪らなくなつたというやうに着物を脱いで、ザンブと水の中に飛び込んだ。『大丈夫ですよ、私等がついて居るから』船頭はかう言つて心配する主婦の方を見て言つた。
連日の快晴で、水の浅くなつた処などもをり/\あつた。上りの小蒸汽が白いペンキ塗の船体を暑い日影《ひかげ》にキラキラさせて、浅瀬につかへて居る傍《そば》をも通つて行つた。汽船では乗客を皆な別の船に移して、荷を軽くして船員|総《そう》がゝりで、長い竿棹《さを》を五本も六本も浅い州に突張《つつぱ》つて居た。しかも汽船は容易に動かなかつた。煙突からは白い薄い煙《けぶり》が徒《いたづ》らに立つて居た。
其日も暑い日であつた。それに風がなかつた。上《のぼ》りも下《くだ》りも帆を揚げて居る船は一隻もなかつた。一人の船頭の胸からは油汗が流れ、一人の船頭の眼からは眼脂《めやに》が流れた。人々は岸の人家や土手の樹木の移つて行くことの遅いのに段々|倦《う》んで来た。それにヂリヂリと上から照り附けられる苫《とま》の中も暑かつた。盲目《めくら》の婆さん[#「婆さん」は底本では「姿さん」]は、襦袢《じゆばん》一つになつて、濡《ぬら》して絞《しぼ》つて貰つた手拭を、皺《しわ》の深い胸の処に当てゝ居た。
川に臨んで白堊造《しらかべづくり》の土蔵の見える処に来たのは、其日の午後であつた。此処《ここ》には有名な白味淋《しろみりん》の問屋があつた。酒も灘酒《なだ》に匹敵す
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