ると、それは懐《なつか》しい山県行三郎君で、自分が来たといふ事を今少し前に知らせて遣つたものだから、万事を差措《さしお》いて急いで遣つて来たのであつた。夏の夕は既に暮れて、夕暮の海の様に晴れ渡つた大空には、星が降るやうに閃《きら》めいて居るが、十六日の月は稍《やゝ》遅く、今しも高社山《かうしやざん》の真黒な姿の間から、其の最初の光を放たうとして、その先鋒《せんぽう》とも称すべき一帯の余光を既に夜露の深い野に山に漲《みなぎ》らして居た。四辺《あたり》はしんとして、しつとりとして、折々何とも形容の出来ない涼しい好い風が、がさ/\と前の玉蜀黍《たうもろこし》の大きな葉を動かすばかり、いつも聞えるといふ虫の声さへ今宵《こよひ》は何《ど》うしてか音を絶つた。でも、黙つて、静かに耳を欹《そばだ》てると、遠くでさら/\と流れて居る尾谷川の渓流の響が、何だか他界から来るある微妙な音楽でも聞くかのやうに、極めて微かに聞えて居る。
疎《まば》らな鎮守の森を透《とほ》して、閃々《きら/\》する燈火の影が二つ三つ見え出した頃には、月が已《すで》にその美しい姿を高社山の黒い偉大なる姿の上に顕《あら》はして居て
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