好時節になると、自分はよく四谷の大通を散歩して、帰りには必ずその柳のある湯屋に寄つてみる。すると、二階の上から田舎の太神楽《だいかぐら》に合せる横笛の声がれろれろ、ひーひやらりと面白く聞えて、月がその物干台の上に水の如く照り渡つて、その背の低い山県の姿が、明かな夜の色の中に黒くくつきりと際立《きはだ》つて見える。
「おい、山県君!」
と下から声を懸ける。
と……笛の音《ね》がばつたり止む。
「誰だか」
と続いて田舎訛《ゐなかなまり》の声。
「僕、僕、富山《とみやま》!」
「富山君か、上《あが》んなはれ」
その物干台! その月の照り渡つた物干台の上で、自分等は何んなにその美しい夜を語り合つたであらうか。今頃は私等の故郷でもあの月が三峯《みつみね》の上に出て、鎮守の社《やしろ》の広場には、若い男や若い女がその光を浴びながら何の彼《か》のと言つて遊び戯れて居るであらう。斑尾山《まだらをさん》の影が黒くなつて、村の家々より漏るゝ微かな燈火《ともしび》の光! あゝ帰りたい、帰りたいと山県は懐郷の情に堪へないやうに幾度もいふ。自分も何んなにその静かな山中の村を想像したであらうか。
半年程
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