山云ふが好いだ。こんなに意気地なく酔つて居ながら、帰らねえとは、余り押が強過ぎるぢやねえだか」
と世話役は、其儘両手を引張つて、強《し》ひてこの酔漢を立上らせようとした。けれど大磐石《だいばんじやく》の如く腰を据《す》ゑた儘、更に体を動かさうとも為ないので、仕方がなく、傍の二三人に助勢させて、無理遣りに其席から引摺上《ひきずりあ》げた。
「何|為《し》やがる」
と重右衛門は引摺られながら、後の男を蹴らうと為た。が、夥《おびただ》しく酔つて居るので、足の力に緊《しま》りが無く、却《かへ》つて自分が膳や椀の上に地響して※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れた。
「おい、確《しつか》りしろ」
と世話役は叫んで、倒れたまゝ愈《いよ/\》起きまじとする重右衛門を殆ど五人掛りにて辛くも抱上げ、猶《なほ》ぐづ/\に埋窟《りくつ》を云ひ懸くるにも頓着せずに、Xの字にその大広間をよろめきながら、遂《つひ》に戸外《おもて》へと伴《つ》れ出した。
一室は俄《には》かに水を打つたやうに静かになつた。今しも其一座の人の頭脳《あたま》には、云ひ合さねど、いづれも同じ念が往来して居るので、あの重右衛門、あの乱暴な重右衛門さへ居なければ、村はとこしへに平和に、財産、家屋も安全であるのに、あの重右衝門が居るばかりで、この村始まつて無いほどの今度の騒動《さわぎ》。
いつそ……
と誰も皆思つたと覚しく、一座の人々は皆意味有り気に眼を見合せた。
あゝこの一瞬!
自分はこの沈黙の一座の中に明かに恐るべく忌《い》むべく悲しむべき一種の暗潮の極めて急速に走りつゝあるのを感じたのである。
一座は再び眼を見合せた。
「それ!」
と大黒柱を後に坐つて居た世話役の一人が、急に顎《あご》で命令したと思ふと、大戸に近く座を占めた四五人の若者が、何事か非常なる事件でも起つたやうに、ばら/\と戸外《おもて》へ一散に飛び出した。
* * *
二十分後の光景。
自分は殆《ほとん》ど想像するに堪へぬのである。
諸君は御存じであらう。自分が始めてこの根本家を尋ねた時、妻君が頻《しき》りに、鋤《すき》、鍬《くは》等を洗つて居た田池《たねけ》――其周囲には河骨《かうほね》、撫子《なでしこ》などが美しくその婉《しを》らしい影を涵《ひた》して居た纔《わづ》か三尺
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