撲つて見ろ!」
 と言ふと、ばら/\と人が撲《う》ちに蒐《かゝ》つた様な気勢《けはひ》が為たので、自分は友の留めるのをも振り解《ほど》いて、急いで次の間の、少し戸の明いて居る処へ行つて、そつと覗いた。いづれも其方《そつち》にのみ気を取られて居るから、自分の其処に行つたのに誰も気の付く者は無い。自分の眼には先《まづ》烟《けむり》の籠《こも》つた、厭《いや》に蒸熱《むしあつ》い空気を透《とほ》して、薄暗い古風な大洋燈《おほランプ》の下に、一場の凄《すさま》じい光景が幻影《まぼろし》の如く映つたので、中央の柱の傍に座を占めて居る一人の中老漢《ちゆうおやぢ》に、今しも三人の若者が眼を瞋《いか》らし、拳《こぶし》を固めて、勢《いきほひ》猛《まう》に打つて蒐《かゝ》らうとして居るのを、傍の老人が頻《しき》りにこれを遮《さへぎ》つて居るところであつた。この中老漢、身には殆ど断々《きれ/″\》になつた白地の浴衣《ゆかた》を着、髪を蓬《おどろ》のやうに振乱し、恐しい毛臑《けずね》を頓着せずに露《あら》はして居るが、これが則《すなは》ち自分の始めて見た藤田重右衛門で、その眼を瞋《いか》らした赤い顔には、まことに凄じい罪悪と自暴自棄との影が宿つて、其半生の悲惨なる歴史の跡が一々その陰険な皺《しわ》の中に織り込まれて居るやうに思はれる。自分は平生《へいぜい》誰でも顔の中に其人の生涯《しやうがい》が顕《あらは》れて見えると信じて居る一人で、悲惨な歴史の織り込まれた顔を見る程心を動かす事は無いのであるが、自分はこの重右衛門の顔ほど悲惨極まる顔を見た事は無いとすぐ思つた。稍《やゝ》老いた顔の肉は太《いた》く落ちて、鋭い眼の光の中に無限の悲しい影を宿しながら、じつと今打ちに蒐《かゝ》らうとした若者の顔を睨《にら》んだ形状《かたち》は、丸で餓《う》ゑた獣の人に飛蒐《とびかゝ》らうと気構へて居るのと少しも変つた所は無い。
「酔客《よつぱらひ》を相手にしたつて仕方が無えだ! 廃《よ》さつせい、廃さつせい!」
 と老人は若者を抑へた。
「撲《なぐ》るとは、面白《おもしれ》いだ、この藤田重右衛門を撲れるなら、撲つて見ろ、奴等《うぬら》のやうな青二才とは」
 と果して腕を捲《まく》つて、体をくるりと其方へ回した。
「管《かま》はんで置くと、好い気に為《な》るだア。此奴の為めに、村中大騒を遣つて、夜も碌々《ろく
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