は唾《つば》を吐き懸けられる、村の人にはてんから相手にされぬといふ始末で、夜逃の様にして村を出て行つたが、其時の悲しかつた事は今でも忘れない。あの倉沢の先の吹上《ふきあげ》の水の出て居る処があるが、あそこで、石に腰を懸けて、もうこれで村に帰つて来るか何《ど》うだかと思つた時は、情なくなつて涙が出て、いつそこゝで死んで了はうかとすら思つた程であつた。けれど……思返して、何うせ死ぬ位なら、江戸に行つて死ぬのも同じだ、死んだ積りで、量見を入れかへて、働いて見よう……とてく/\と歩き出したが、それが私の運の開け始めで、それでまア、兎《と》に角《かく》今の身分に為つた……」
「私なんざア、駄目でごす…‥」
 と重右衛門は言つたが、其顔はおのづから垂れて、眼からは大きな涙がほろ/\と膝の上に落ちた。
「駄目な事があるものか。私などもお前さんの様に、其時は駄目だと思つた。けれどその駄目が今日のやうな身分になる始となつたぢやがアせんか。何でも人間は気を大きくしなければ好《い》けない」
 答の無いのに再び言葉を続《つ》いで、
「村の奴などは何とでも勝手に言はせて置くが好い。世の中は広いのだから、何も村に居なければならねえと言ふのでもねえ、男と生れたからにや、東京にでも出て一旗挙げて来る様で無けりや、話にも何にも為《な》らねえと言ふ者《もん》だ……」
 重右衛門は殆ど情に堪へないといふ風で潮《うしほ》の如く漲《みなぎ》つて来る涙を辛うじて下唇を咬《か》みつゝ押へて居た。
「本当でごいすよ、私は決して自分に覚えの無《ね》え事を言ふんぢやねえんだから、……本当に一つ奮発さつしやれ、屹度《きつと》それや立身するに極つてるから」
「私は駄目でごす……」と涙の込み上げて来るのを押へて、「私ア、とても貴郎《あんた》の真似は出来ねえでごす。一体、もうこんな体格《からだ》でごいすだで」
「そんな事はあるものか」と貞七は口では言つたが、成程それで十分に奮発する事も出来ないのかと思ふと、一層同情の念が加はつて、愈《いよ/\》慰藉《ゐしや》して遣らずには居られなくなつた。
「本当にそんな事は無い。世の中にはお前さんなどよりも数等|利《き》かぬ体で、立派な事業を為た人はいくらもある。盲目《めくら》で学者になつた塙検校《はなはけんげう》と言ふ人も居るし、跛足《びつこ》で大金持に為つた大俣《おほまた》の惣七といふ
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