身持が治《をさま》り懸けた重右衛門が再び遊廓に足を踏み入れるやうに為り、少しく手を下し始めた荒廃した田地の開墾が全く委棄《ゐき》せられて了つたのも、これも余儀ない次第であらう。
※[#「にんべん+尚」、第3水準1−14−30]《も》し、この危機に処して、一家の女房たるものが、少しく怜悧《れいり》であつたならば、狂瀾《きやうらん》を既に倒るゝに翻《ひるがへ》し、危難を未《いま》だ来らざるに拒《ふせ》ぐは、さして難い事では無いのである。が、天は不幸なるこの重右衛門にこの纔《わづ》かなる恩恵《めぐみ》をすら惜んで与へなかつたので、尋常よりも尚《なほ》数等愚劣なるかれの妻は、この危機に際して、あらう事か、不貞腐《ふてくされ》にも、夫の留守を幸ひに、山に住む猟師《れふし》のあらくれ男と密通した。
そして、それの露顕した時、
「だつて、その位《くれゐ》は当《あた》り前《めへ》だア。お前さアばか、勝手な真似して、己《うら》ら尤《とが》められる積《せき》はねえだ」
とほざいた。
重右衛門は怒つたの、怒らないのツて、
「何だ、この女《あま》!」
と一喝して、いきなり、その髪を執《と》つて、引摺倒《ひきずりたふ》し、拳《こぶし》の痛くなるほど、滅茶苦茶に撲《なぐ》つた。そして半死半生になつた女房を尻目にかけて、其儘《そのまま》湯田中へと飛んで行つた。そして、酒……酒……酒。
で、これからと言ふものは、重右衛門は全く身を持崩して了つたので、女郎買を為《す》るばかりではない、悪い山の猟師と墾意に為《な》つて、賭博《ばくち》を打つ、喧嘩を為る、茶屋女を買ふ、瞬《またゝ》く間にその残つて居る田地をも悉《こと/″\》く人手に渡して、猶《なほ》其上に宅地と家屋敷を抵当に、放蕩費《はうたうひ》を借りようとして居るのだが、誰もあんな無法者に金を貸して、抵当として家屋敷を押へた処が、跡で何んな苦情を持出さぬものでもないと、恐毛《おぞけ》振つて相手に為《せ》ぬので、そればかりは猶其後|少時《しばし》、かれの所有権ある不動産として残つて居た。
ある時かういふ奇談がある。
かれはその三日前ばかりから、湯田中に流連《ゐつゞけ》して、いつもの馴染《なじみ》を買つて居たが、さて帰らうとして、それに払ふべき金が無い。仕方が無いから、苦情やら忌味《いやみ》やらを言はれ/\、三里の山道を妓夫《ぎふ》を引張
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