、孫や、孫やで通つたなども、かれの悲劇を思ふ人の有力なる材料になるに相違ない。
月日は流るゝ如く過ぎて、早くも渠《かれ》は十七の若者となつた。其年の春、祖母は老病で死んで了つたが、此年ほど藤田家に取つて運の悪い年は無かつたので、其初夏には、父親が今年こそはと見当を付けて、連年の養蚕《やうさん》の失敗を恢復《くわいふく》しようと、非常に手を拡《ひろ》げて養《か》つた蚕が、気候の具合で、すつかり外《はづ》れて、一時に田地の半分ほども人手に渡して了ふといふ始末。かてて加へて、妻の持病の子宮が再発して、枕も上らず臥《ふ》せつて居ると、父親は又父親で、失敗の自棄《やけ》を医《いや》さん為め、長野の遊廓にありもせぬ金を工面して、五日も六日も流連《ゐつゞけ》して帰らぬので、年を老《と》つた、人の好い七十近い祖父が、独《ひと》りでそれを心配して、孫や孫やと頻《しき》りに重右衛門ばかりを力にして、何うか貴様は、親父《おやぢ》のやうに意気地なしには為つて呉れるな、祖父《ぢいさん》の代の田地《でんち》を何うか元のやうに恢復《くわいふく》して呉れと、殆ど口癖のやうに言つて居た。
御存じでは御座るまいが、村には若者の遊び場所と言ふやうなものがあつて、(自分は根本行輔の口からこの物語を聞いて居るので)昼間の職業《しごと》を終つて夕飯を済すと、いつも其処に行つて、娘の子の話やら、喧嘩の話やら、賭博《ばくち》の話やら、いろ/\くだらぬ話を為て、傍《かたは》ら物を食つたり、酒を飲んだりする処がある。今では学校が出来て、教育の大切な事が誰の頭脳《あたま》にも入つて来たから、さういふ下らぬ遊を為《す》るものも少く為《な》つたけれど、まだ私等の頃までは、随分それが盛んで、やれ平右衛門の二番娘は容色《きりやう》が好いの、やれ総助の処の末の娘が段々色気が付いて来たのと下らぬ噂を為《する》ばかりならまだ好いが、若者と若者との間にその娘に就いての鞘当《さやあて》が始まる、口論が始まる、喧嘩が始まる、皿が飛ぶ、徳利が破《こは》れるといふ大活劇を演ずることも度々で、それは随分|弊《へい》が多かつた。殊に其遊び場所の最も悪い弊と言ふのは、その若者の群の中にも自《おのづ》から勢力の有るものと、無いものとの区別があつて、其勢力のある者が、まだ十六七の若い青年を面白半分に悪いところに誘つて行く、これが第一の弊だと思ふ。
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