を治《なほ》して遣《や》る方法は無いかと、長野まで態々《わざ/\》出懸けて、いろ/\医者にも掛けて見たけれど、まだ其頃は医術も開けて居らぬ時代の事とて、一時は腸に収まつて居ても、又何かの拍子で忽地《たちまち》元に復して了ふので、いくら可愛想に思つても、何《ど》う為《す》る事も出来なかつた。
 これが又一層|不便《ふびん》を増すの料となつて、孫や孫やと、その祖父祖母の寵愛は益《ます/\》太甚《はなはだ》しく、四歳《よつ》五歳《いつゝ》、六歳《むつ》は、夢のやうに掌《たなごころ》の中に過ぎて、段々その性質があらはれて来た。けれど、子供の時分には、只非常に意地の強いといふばかりで、別段これと言つて他の童《わらべ》に異つたところも無かつたといふ事だが、それでも今の老人の中には、重右衛門の子供にも似ぬ、一種|茫然《ぼんやり》したやうな、しつかりしたやうな、要領を得ない処があるのを記憶して居て、どうもあの子は昔から変つて居ると思つたと言ふ者もある。が、概して他の童にさしたる相違が無かつたといふのが、一般の評であつた。山県の総領の兄などはその幼い頃の遊び夥伴《なかま》で、よく一所に蜻蛉《とんぼ》を交《つる》ませに行つたり、草を摘みに行つたり、山葡萄《やまぶだう》を採《と》りに行つたり為た事があるといふが、今で、一番記憶に残つて居るのは、鎮守の境内で、鬼事《おにごと》を為る時、重右衛門は睾丸が大いものだから、いつも十分に駆ける事が出来ず、始終中《しよつちゆう》鬼にばかり為《な》つて居たといふ事と、山茱萸《やまぐみ》を採りに三峯に行つた時、その大睾丸を蜂に食はれて、家に帰るまで泣き続けて居たといふ事と、今一つ、よく大睾丸を材料《たね》にして、いろ/\渾名《あざな》を付けたり、悪口を言つたり為《す》るものだから、終《しまひ》にはそれを言ひ始めると、厭《いや》な顔をして、折角《せつかく》楽しげに遊んで居たのも直ぐ止めて帰つて了ふやうになつたといふ事位のものであるさうな。けれど其先天的不具がかれの一生の上に非常に悲劇の材料と為つたのは事実で、人間と生れて、これほど不幸福《ふしあわせ》なものは有るまい。それから愛情の過度、これも確かにかれの今日の境遇に陥つた一つの大なる原因で、大きくなる迄、孫や、孫やとやさしい祖父にちやほやされて、一時村の遊び夥伴《なかま》の中に、重右衛門と名を呼ぶ者はなく
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