く》その好景に見惚《みと》れて居た。
ふと背負籠《しよひかご》を負つた中老漢《ちゆうおやぢ》が向ふから上《のぼ》つて来たので、
「あの山は?」
と指《ゆびさ》して尋ねた。
「あれでがすか、あれははア、飯山《いひやま》の向ふの高社山《かうしやざん》と申しやすだア」
あれが高社山! よく友の口から聞いたと思ふと、其時の事が簇々《むら/\》と思ひ出されて今更其頃が懐《なつ》かしい。其頃は其仙境を何時《いつ》尋ねて行かれるであらうか、或は一生尋ねて行く事が出来ぬかも知れぬなどと思つて居たが、五年後の今日かうして尋ねて行くとは、如何に縁の深い事であらう。
「塩山村《しほやまむら》へはまだ余程あるかね」
「塩山へかね」と背負籠《しよひかご》を傍《かたはら》の石の上に下して、腰を伸しながら、「塩山へは此処からまだ二里と言ひやすだ。あの向ふの大《でか》い山の下に小《こまか》い山が幾箇《いくつ》となく御座らつせう。その山中《やまんなか》だアに……」
「塩山に根本といふ家はあるかね」
と自分は更に尋ねた。
「根本………御座らしやるとも、根本ていのア、塩山では一等の丸持大尽《まるもちだいじん》でごわすア」と答へて、更に、「で貴郎《あんた》ア、根本さア処《とけ》の御客様《おきやくさん》かね」
「其処に行輔《かうすけ》といふ子息《むすこ》が有るだらう?」
「御座らつしやる」と言つて吸ひ懸けた烟草《たばこ》の烟《けむり》を不細工な獅子鼻からすうと出し、「大尽どこの子息に似合ねえ堅い子息でごわすア、何でも東京へ行かしつた時にア、それでも四五百も遣つたといふ噂だが、それから堅くなつて、今ぢや村でも評判ものでごわす」
「一体|汝《おまへ》は何処だね? 塩山かね」
「いんにや、塩山ではごへん、その一つ前の村の倉沢でごわす」
「もう根本は女房《かみさん》を持つたらう」
「嚊《かゝ》さまでごわすか、持ちましたとも、……えいと……あれは確か三年前で、芋子村《いもこむら》の大尽の娘さアだ」
「子供は?」
「まだごわしねえ、もう出来さうな者だつて此間《こねえだ》も父様《とつさま》えらく心配《しんぺい》のう為《し》で御座らしやつたけ」
「それでは山県といふのも知つてるだらう」
「山県――はア学校の先生|様《さん》だア、私等が餓児《がき》も先生様の御蔭にはえらくなつてるだア。好《え》い優しい人で、はア」
「
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