《とか》したやうな空に巍然《ぎぜん》として聳《そび》えて居て、小山を開墾した畑には蕎麦《そば》の花がもうそろ/\その白い美しい光景を呈し始めようとして居た。空気は此上も無く澄んで、四面の山の涼しい風が何処から吹いて来るとも無く、自分の汗になつた肌を折々襲つて行くその心地好さ! これは山でなければ得られぬ賜《たまもの》と、自分はそれを真袖《まそで》に受けて、思ふさま山の清い※[#「冫+影」、333−上−9]気《けいき》を吸つた。十年都会の塵にまみれて、些《いさゝか》の清い空気をだに得ることの出来なかつた自分は、長野の先の牟礼《むれ》の停車場で下りた時、その下を流るゝ鳥居川の清渓と四辺《あたり》を囲む青山の姿とに、既に一方《ひとかた》ならず心を奪はれて、世にもかゝる自然の風景もあることかと坐《そゞ》ろに心を動かしたのであるが、渓橋を渡り、山嶺《さんれい》をめぐり、進めば進むほど、行けば行くだけ、自然の大景は丁度《ちやうど》尽きざる絵巻物を広げるが如く、自分の眼前に現はれて来るので、自分は益々興を感じて、成程これでは友が誇つたのも無理ではないと心《しん》から思つた。
 小山と小山との間に一道の渓流《けいりう》、それを渡り終つて、猶其前に聳えて居る小さい嶺《みね》を登つて行くと、段々|四面《あたり》の眺望《てうばう》がひろくなつて、今迄越えて来た山と山との間の路が地図でも見るやうに分明《はつきり》指点せらるゝと共に、この小嶺《せうれい》に塞《ふさ》がれて見得なかつた前面の風景も、俄《には》かにパノラマにでも向つたやうにはつと自分の眼前に広げられた。
 上州境の連山が丁度《ちやうど》屏風《びやうぶ》を立廻したやうに一帯に連《つらな》り渡つて、それが藍《あゐ》でも無ければ紫でも無い一種の色に彩《いろど》られて、ふは/\とした羊の毛のやうな白い雲が其|絶巓《ぜつてん》からいくらも離れぬあたりに極めて美しく靡《なび》いて居る工合、何とも言ヘぬ。そして自分のすぐ前の山の、又その向ふの山を越えて、遙《はる》かに帯を曳《ひ》いたやうな銀《しろがね》の色のきらめき、あれは恐らく千曲《ちくま》の流れで、その又向ふに続々と黒い人家の見えるのは、大方中野の町であらう。と思つて、ふと少し右に眼を移すと、千曲川の沿岸とも覚しきあたりに、絶大なる奇山の姿!
 何と言ふ山か知らん……と自分は少時《しばら
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