いました」
 と、再びていねいに娘は礼を述べて、そして踵《きびす》をめぐらした。
 男は嬉しくてしかたがない。愉快でたまらない。これであの娘、己《おれ》の顔を見覚えたナ……と思う。これから電車で邂逅《かいこう》しても、あの人が私の留針を拾ってくれた人だと思うに相違ない。もし己が年が若くって、娘が今少し別嬪《べっぴん》で、それでこういう幕を演ずると、おもしろい小説ができるんだなどと、とりとめもないことを種々に考える。聯想《れんそう》は聯想を生んで、その身のいたずらに青年時代を浪費してしまったことや、恋人で娶《めと》った細君の老いてしまったことや、子供の多いことや、自分の生活の荒涼としていることや、時勢におくれて将来に発達の見込みのないことや、いろいろなことが乱れた糸のように縺《もつ》れ合って、こんがらがって、ほとんど際限がない。ふと、その勤めている某雑誌社のむずかしい編集長《へんしゅうちょう》の顔が空想の中にありありと浮かんだ。と、急に空想を捨てて路を急ぎ出した。

       三

 この男はどこから来るかと言うと、千駄谷《せんだがや》の田畝《たんぼ》を越して、櫟《くぬぎ》の並木の向
前へ 次へ
全28ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田山 花袋 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング