娘のだ!
 いきなり、振り返って、大きな声で、
 「もし、もし、もし」
 と連呼した。
 娘はまだ十間ほど行ったばかりだから、むろんこの声は耳に入ったのであるが、今すれ違った大男に声をかけられるとは思わぬので、振り返りもせずに、友達の娘と肩を並べて静かに語りながら歩いていく。朝日が美しく野の農夫の鋤《すき》の刃に光る。
 「もし、もし、もし」
 と男は韻を押《ふ》んだように再び叫んだ。
 で、娘も振り返る。見るとその男は両手を高く挙《あ》げて、こっちを向いておもしろい恰好《かっこう》をしている。ふと、気がついて、頭に手をやると、留針《ピン》がない。はっと思って、「あら、私、嫌《いや》よ、留針を落としてよ」と友達に言うでもなく言って、そのまま、ばたばたとかけ出した。
 男は手を挙げたまま、そのアルミニウムの留針を持って待っている。娘はいきせき駆けてくる。やがてそばに近寄った。
 「どうもありがとう……」
 と、娘は恥ずかしそうに顔を赧《あか》くして、礼を言った。四角の輪廓をした大きな顔は、さも嬉しそうににこにこと笑って、娘の白い美しい手にその留針を渡した。
 「どうもありがとうござ
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